鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

#歴史

戦国最上戦記Ⅱ  最上氏の出羽入部

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 下級貴族出身ながら鎌倉幕府創設に多大な貢献をし政所初代別当(長官)となった大江広元は、頼朝の奥州征伐後寒河江庄(寒河江市と西村山郡と北村山郡の一部)、長井庄(範囲は不明ながら置賜郡のかなりの部分を占めた…

戦国最上戦記Ⅰ   戦国時代に至るまでの出羽国の情勢

大宝寺義氏と由利十二頭の記事を書いて以来、出羽国とくに現在の山形県に当たる羽前国に対する興味が尽きません。そこで羽前の歴史に大きく関わる大名、出羽山形城主最上氏を軸に戦国時代の山形県を語ろうと思います。 第一回は、山形県とはどういうところか…

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅳ  由利合戦と出羽のその後

由利十二頭が十五家もあるのになぜ十二か?ということでどうも仏教の十二神将に関係があるらしいと書きましたが出典みつかりました。天徳三年(1331年)出羽国由利郡津雲出郷の源正光、滋野行家が天下泰平を祈願して鳥海山に十二神将像を奉納したことからこ…

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅲ  戦国大名大宝寺義氏

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 大宰少弐武藤資頼の弟氏平から始まる出羽武藤氏は、五代長盛の時はじめて出羽に下り大泉庄の中心大宝寺に城を築きます。それまで大泉氏と称していた出羽武藤氏はこの時以来大宝寺氏を名乗りました。大宝寺氏は、天文元…

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅱ  羽後国と由利郡の状況

現在の秋田県と山形県を合わせて出羽国と呼ぶことは前記事で書きました。そのうち山形県の領域を羽前、秋田県の領域を羽後と呼ぶことも。ただし羽前・羽後という呼び名は戊辰戦争以後のことで江戸期以前はまとめて出羽国でした。これは陸奥国にも言えること…

大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅰ  その地勢と大宝寺氏の成立

先日NHKのタイムスクープハンター「壮絶!雪上の戦い」という番組を偶然見ました。大宝寺義氏、由利郡という言葉を聞いて義氏が由利郡へ進攻し由利十二頭やそれを支援する安東(秋田)愛季(ちかすえ)と戦った由利合戦のことだなとピンと来たんですが、期待…

有史以来、支那人の民度が日本人を上回ったことは一度もない

【中国】日本人の民度はいかにして短期間で向上したのか―中国メディア | 新華社 この記事、根本的に間違っていますな。日本は昔は民度が低かったが急速な経済発展、あるいは民主主義のおかげで民度が向上したと宣っています(苦笑)。 おそらく自国の歴史に…

元軍軍船の脆弱性

前記事の関連です。これはあくまで私の個人的見解であり何ら資料的裏付けがないことは前もって申し上げておきます。 さて、元帝国が成立し東アジア各国へ侵略の手を広げたわけですが海を渡っての上陸作戦がことごとく失敗したのは何故でしょうか?もちろん一…

もう一つの元寇  占城(チャンパ)と大越

日本の歴史において元寇というのは未曽有の国難でした。日本はその危機を克服し独立を保ったのです。一方、元帝国の皇帝フビライ汗(在位1260年~1294年)は日本だけでなくアジア各地に遠征軍を送りました。1276年には南宋を、1287年にはビルマのパガン朝を滅…

【長浜浩明】韓国人は何処から来たか[桜H26/4/15]

図らずも私の仮説、古代朝鮮半島の主人公は日本人だったという事が科学的に証明されましたなwww 稲作伝播の歴史を考えるとそう結論せざるを得ないのですが、半島南部の古墳で日本式のやつも見つかってますよね。古人骨の面からも補強されたわけですか? 朝…

二人の提督の戦後

小沢治三郎 栗田健男 戦記ファンにはおなじみの小沢治三郎と栗田健男。小沢は早くから航空主兵を唱えアウトレンジ戦法を編み出すも、マリアナ沖海戦では搭乗員の練度不足、航空機の性能不足もあって米軍に完敗。マリアナ沖の七面鳥撃ちと揶揄されるほどでし…

新羅日本人国王説

高校で歴史(日本史・世界史)を習った人なら全員知っていると思いますが古代朝鮮半島南部には馬韓・弁韓・辰韓という国があり、それぞれ百済・任那(伽耶)・新羅に発展しました。おそらく日教組の影響の強い高校歴史教育ではこれらを朝鮮の民族王朝として…

大慶油田の油質に関する問題

よく大東亜戦争に関するIFで、満洲にある大慶(ターチン)油田が戦前に発見されていたら歴史は大きく変わっていたかもしれないと言われます。旧満州地区、現在の黒龍江省のハルビンとチチハルの間に広がる松遼盆地の湿原に存在する大慶油田は1959年発見さ…

エベンキ族の人たちに申し訳ない

よく朝鮮民族のルーツはツングース系のエベンキ族だと言われます。他の民族(支那人や日本人)には見られない鳥のトーテムポールやアリランの歌と同じものが朝鮮人とエベンキ族だけにあったりします。そして朝鮮語では意味が通じないがエベンキ語だとアリラ…

近代中東史Ⅳ  カージャール朝とパハラヴィー朝のイラン

カージャール族というのはトルコ系遊牧民で、サファビー朝の創始者シャー=イスマイル1世に協力したキズィル=バーシ七部族中の一つでした。サファビー朝末期突如現れた風雲児ナディル・シャー(在位1736年~1747年)のアフシャール朝が一代で滅ぶと、アフ…

近代中東史Ⅲ  ワッハーブ王国からサウジアラビアへ

18世紀初頭、アラビア半島中央高原地帯ナジュド地方に一人の改革者が現れます。彼の名はムハンマド・イブン・アブドルワッハーブ。イスラム法学派で最も厳格なハンバル派に属し、今のイスラム教は腐敗しているので原点に踊るべきだと主張します。復古主義・…

近代中東史Ⅱ  ヒジャーズ王国の滅亡

19世紀までアラビア半島で最も重要な地域は、イスラム教の聖地メッカやメディナがありイエメンから紅海を通じてエジプトに至る交易ルートのあった半島西岸地域でした。ところが20世紀に入ってすぐ、ペルシャ湾岸地域で大規模な油田が次々と発見されるように…

近代中東史Ⅰ  アラビアのロレンスとヒジャーズ王国の周辺

アラビアのロレンス、1962年のイギリス歴史映画。第1次大戦中のオスマントルコに対するアラブの反乱を主導したイギリス陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンスを主人公にした映画です。おそらく日本人のアラブイメージ作りに大きく寄与した作品ですが、果…

オランダ独立戦争Ⅴ  オランダ連邦共和国

※ マウリッツの好敵手 アンブロジオ・スピノラ マウリッツの行った軍事の諸改革で、ネーデルラント独立軍はスペイン軍を圧倒し独立を達成させたという見方が多いですが、これは間違いです。というのも当時のスペインは新大陸からもたらされる莫大な富で軍費…

オランダ独立戦争Ⅳ  テルシオ 対 マウリッツ式大隊

※ オランダ総督 オラニエ=ナッサウ公マウリッツ 1584年7月、暗殺者の手により指導者を失ったユトレヒト同盟。スペインのネーデルラント執政パルマ公は攻勢を強めます。東部のオーフェルアイセル、ヘルデルラントの諸都市を占領あるいは外交によって離反させ…

オランダ独立戦争Ⅲ  オラニエ=ナッサウ家の台頭

ネーデルラントのスペインに対する抵抗運動で名前の上がったオラニエ=ナッサウ公ウィレムとは何者でしょうか?実はナッサウ家というのはドイツ西部ライン地方の名門貴族です。オラニエ=ナッサウ家はその支流でした。ナッサウ伯家はライン河を下りネーデル…

オランダ独立戦争Ⅱ  スペインの圧政と乞食党の誕生

オラニエ=ナッサウ公 ウィレム1世 太陽の没せぬ帝国スペイン・ハプスブルク朝の主、フェリペ2世。1555年父神聖ローマ皇帝カール5世はブリュッセルで退位の式典をあげ、嫡子フェリペにネーデルラントの統治を委ねます。その翌年スペイン王位とそれに付属する…

オランダ独立戦争Ⅰ  ネーデルラントの情勢

オランダ語はドイツ語の一方言といわれるほど似ているそうです。それもそのはず、もともとはドイツの一部でした。843年フランク王国が分裂すると中フランク王国に編入され、その後東西フランクが中フランク王国を滅ぼすとそのまま東フランク王国領となり神…

越中における佐々成政Ⅴ   末森城の決戦

ようやく越中を統一した佐々成政。しかし歴史はすでに彼の預かり知らぬところで大きく動き始めていました。 天正十一年(1583年)四月、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破った羽柴秀吉はそのまま北上して越前に入ります。同年四月二十八日柴田勝家とその妻お市の…

越中における佐々成政Ⅳ   本能寺の変と越中の成政

富山城模擬天守 天正十年(1582年)六月二日未明、信長の命で中国出陣を控えていた武将明智光秀は丹波亀山城(京都府亀岡市)を出陣、桂川を渡りました。ここから西へ向かえば山陽路、東へ向かえば京。光秀の采配は東を向きます。「我が敵は本能寺にあり!」…

越中における佐々成政Ⅲ   魚津城の戦い

佐々成政(1536年~1588年)は織田信長の武将です。通称内蔵助。信長の馬廻から武功を重ね黒母衣衆に抜擢。長篠合戦では前田利家らとともに鉄砲隊を率いました。天正三年(1575年)信長が越前を平定すると、北陸方面軍司令官柴田勝家の与寄として前田利家・…

越中における佐々成政Ⅱ   織田軍越中侵攻

※家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 長尾景虎、すなわち後の上杉謙信は生涯で何度か名前を変えています。まず北条氏康に関東を追われ越後に亡命してきた上杉憲政から上杉家督と関東管領職を譲り受けて上杉政虎。上洛して13代将軍足利義輝から一字拝領して…

越中における佐々成政Ⅰ   前史 戦国時代の越中

現在の富山県にあたる越中国は、わずか四郡しかありません。それでいて太閤検地の数字で52万石、寛永期の加賀藩時代の数字だと73万石という堂々たる大国です。これは私見ですが、郡の数が少ないのはそれだけ国の開発が遅れたという事、一方52万石という石高…

播磨戦国史Ⅶ  戦国播磨の終焉

戦国時代、統一勢力がなく小領主が割拠ししかも豊かな国というのは周辺の戦国大名の恰好の攻撃目標になりました。これを兵法では『四戦の地』と呼ぶそうですが、九州の筑前・肥後あるいは東国の越中・信濃・武蔵あたりはまさにそれに当たります。中国地方で…

播磨戦国史Ⅵ  戦国の草刈り場

尼子晴久 三好長慶 赤松義村暗殺によって播磨・備前・美作の旧赤松領国の支配者となった浦上村宗は、永正十七年(1520年)村宗の影響下でわずか8歳で家督を継いだ赤松晴政(政村、政祐と改名しているが晴政で統一)を擁し、戦国大名への道を進み始めました。…