鳳山雑記帳はてなブログ

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日本史

斎藤利三と石谷頼辰と長曾我部元親室

司馬遼太郎の作品に『夏草の賦』というものがあります。私の好きな歴史小説のひとつなんですが、主人公は四国の雄長宗我部元親。物語の冒頭、岐阜城主織田信長の家臣斎藤利三の妹菜々に降ってわいたような縁談が来ます。美濃でも評判の美人である菜々を娶り…

戊辰戦争 裏切った徳川恩顧の藩の言い訳

最近佐賀藩を中心に戊辰戦争における諸藩の動きを書いていますが、本来徳川家に殉じなければいけないはずの御三家、親藩、譜代の大半が幕府徳川家を裏切り新政府側に付きました。これを単純に裏切りと解釈するか生き残るために仕方なかったととるかは個人の…

唐津藩の幕末維新

マニアックな記事で申し訳ございません。最近佐賀県関連の歴史記事にはまっています。今回はいつもの佐賀藩ではなく佐賀藩とは脊振山地を挟んで北にある唐津藩です。現在の佐賀県は肥前国のうち佐賀藩領と唐津藩領が大半を占めます。他は対馬藩の飛び地基肄…

佐賀三支藩と竜造寺四家の人口

全く一般受けしないマニアックなネタで恐縮ですが、最近の佐賀藩シリーズの元ネタである『佐賀県の歴史』(山川出版)に貴重な資料が出ていたので書き写しました。 三支藩とは佐賀藩の公式初代藩主鍋島勝茂が自分の子供たちを封じた支藩、親類同格はいわゆる…

鍋島閑叟(かんそう)の改革と三支藩との確執

鍋島直正(1815年~1875年)、号して閑叟。幕末佐賀藩の実質的最後藩主です。形式上は1861年隠居し藩主の座を息子直大(なおひろ)に譲っていますが、実験は握り続けました。徳川幕府最後の将軍慶喜は維新後述懐します。「長州は最初から敵だったから憎くは…

勅使饗応役と赤穂事件

前記事で佐賀藩の支藩である小城藩、蓮池藩、鹿島藩が次々と江戸幕府から勅使饗応役に任ぜられ支藩の石高も本藩である佐賀藩の内高に含まれていたため、ただでさえ窮乏していた藩財政が負担激増で破綻寸前になったと書きました。勅使饗応役といえば有名な赤…

鍋島勝茂の覚悟と佐賀藩の悲劇

鍋島勝茂(1580年~1657年)と言えば公式には肥前佐賀藩36万石の初代藩主です。というのは父鍋島直茂(1538年~1618年)は実質的な藩主ではあっても公式には竜造寺家の執政という立場でした。直茂は竜造寺隆信の義弟で隆信の北九州制覇に活躍した武将です。…

伊予西園寺氏

マイナーな日本史記事が続きまして申し訳ございません。いつものごとく興味のない方はスルーお願いします。 実は前々から気になっていた事でして、伊予の戦国大名西園寺氏って堂上貴族清華家(五摂家に次ぐ家格、極官太政大臣)の西園寺家の一族ではないかと…

常陸大掾(だいじょう)氏

最近の日本史記事はマニアックで本当に申し訳ございません。興味ない方が大半だと思うのでスルーお願いします。 常陸(現在の茨城県の大部分)大掾氏は平安時代以来の歴史を誇る名門です。その家祖は桓武平氏の嫡流になった常陸太郎貞盛の弟繁盛。懐かしのNH…

摂津晴門とは何者か?

NHK大河ドラマ麒麟がくるに片岡鶴太郎演じる摂津晴門なる人物が登場しましたね。恥ずかしながらこの人物、どのような人物か全く知りませんでした。昔名前くらいは聞いたことある程度。大河ドラマでは織田信長と将軍足利義昭対立の元凶になりそうな感じですが…

下間(しもつま)氏と七里頼周(しちり よりちか)、本願寺の坊官たち

本日の記事は非常にマニアックなので日本史や戦国時代に興味のない方はスルーお願いします。 さて何回も話したと思いますが、私の悪い癖は一つの記事を書くとその関連項目も調べたくなる事です。その時は集中しているんですが、熱しやすく冷めやすいためすぐ…

朝倉家の人々

南北朝以来の歴史を誇り、越前の一介の国人から応仁の乱で活躍し越前守護職まで昇りつめた朝倉氏。戦国大名への脱皮にも成功し越前を中心に大きな勢力を誇ります。ところが最後の当主義景は凡庸で大きな選択をいくつも間違えたため天正元年(1573年)織田信…

支那事変における『点と線』批判に対する再批判

1937年盧溝橋事件から始まる支那事変。上海、南京、北京、武漢三鎮と重要都市を占領したものの、蒋介石政権が四川省重慶に立て籠もって徹底抗戦したため泥沼化。国府軍(国民政府の国民革命軍)は精強な日本軍に対抗できないため正面からの衝突を避けゲリラ…

肥後古代史Ⅲ 塚原遺跡

玉名市教育委員会文化課は8日、塚原遺跡(同市岱明町野口塚原)で、弥生時代中後期(1~3世紀)の環濠集落跡と大型の竪穴建物跡などを発掘したと発表した。 古い海岸線のそばで、近くには装飾品のゴホウラ貝製貝輪が出土した「年の神遺跡」(支石墓)もあ…

肥後古代史Ⅱ 方保田東原遺跡

前記事茂賀の浦話の続きです。熊本県山鹿市に弥生時代後期から古墳時代にかけての環濠集落遺跡方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡があります。恥ずかしながら茂賀の浦の記事を書くために調べるまで知らなかったんですが、史跡指定地11ヘクタール、遺跡の…

肥後の古代湖、茂賀(もが)の浦

超マニアックな話題で申し訳ない。随分前、ヤフーブログで内田康夫『浅見光彦シリーズ 【はちまん】』の舞台の一つとなった熊本県山鹿市鹿央町の千田聖母(ちだしょうも)八幡宮の紹介をしました。作品の中で千田聖母八幡宮の聖母とは、古代この地を治めてい…

豊臣埋蔵金に関する一考察

前記事で数ある埋蔵金伝説の中で豊臣秀吉の埋蔵金は一番可能性があると書きました。というのも秀吉の富裕さは記録が残っているからです。本能寺の変の後中国大返しで姫路城に入った秀吉は城にあった財宝を2万の将兵にすべて配り不退転の決意で山崎の合戦に臨…

埋蔵金伝説に関する身も蓋もない話

先日NHKで天草諸島近海の珊瑚を紹介する番組がありました。何となく見ていたんですが、数日後車を運転中突然思い出し、天草→天草・島原の乱→天草四郎の埋蔵金と勝手にセルフ連想ゲームが始まりました(笑)。ただ、私はすれているんで埋蔵金なんかあるはずも…

お艶(つや)の方が死ななくて済んだ方法

お艶(つや)の方は岩村御前とも呼ばれる女性です。織田信長の叔母にあたります。といっても信長の祖父信定晩年の子だったらしく信長とは2~3歳くらいしか離れていなかったとも言われます。織田家はお市の方に代表される通り美人の多い家系でお艶も大変な美…

濃姫のその後

濃姫と言えば織田信長の正室、斎藤道三の娘です。信長の父信秀と道三の和睦のために政略結婚で信長に嫁ぎました。小説やドラマでは帰蝶という名前ですが本名は伝わっていません。実は彼女、生没年が良く分かっていないのです。一応生誕は1534年となっており…

赤井悪右衛門直正

来年の大河ドラマは明智光秀ですが、沢尻エリカ騒動で別の意味で注目されています。信長の正室濃姫役は川口春奈が代役として演じることに。私は川口を五島列島が生んだ奇跡と思っているので、これをチャンスに女優として飛躍して欲しいですね。 それはともか…

楠木正儀、南朝の裏切り者と呼ばれた男

楠木正成、南朝の忠臣としておそらくほとんどの日本人は名を知っていると思います。その嫡男正行(まさつら)も湊川の戦で勝つ見込みのない中壮絶な決意で赴く父正成と桜井の駅での別れは太平記の中でも名場面の一つです。そして成長した正行は父の遺志を継…

五摂家の話

日本史の過去記事で当たり前のように書いてきましたが、万が一日本史初心者の方が読んだら難しいだろうなと反省し説明記事を作りました。 五摂家というのは摂政・関白になる資格のある公家最高の家格で、藤原北家の嫡流具体的には「この世をば~」の和歌で有…

阿蘇流北条氏の最期

久々の日本史記事ですが、マイナーすぎるので一般の方は全く面白くないと思います。 このブログの前身であるヤフーブログを開設して間もなく『肥後小国郷と北条時定』の記事で鎌倉末期から南北朝期の肥後小国地方を領した北条氏の最期が良く分からないと書い…

佐野天徳寺の人物評

学研の隔月刊『歴史群像』は私の愛読書の一つです。その創刊号かそれに近い号に印象深いエピソードがあります。 下野国(現栃木県)佐野地方に佐野氏という戦国大名がいました。関東屈指の名城唐沢山城を擁し鎌倉時代から地頭として勢力を維持し小さいながら…

箱館戦争とランチェスターの法則

ランチェスターの法則とは過去記事でも書きましたが戦争における兵士の損耗を数理モデルを使って説明した法則で、敗者が全滅した時勝者はどれほど生き残れるかを示しています。前近代の戦闘を扱った第1法則では両軍の兵力の差が勝者の生き残り数、近代の戦争…

有屋峠の合戦

ほとんどの方は知らないと思います。1586年出羽国最上郡と雄勝郡の境あたりで起こった最上義光と小野寺義道との間に戦われた合戦です。現在の地名で言うと山形県金山町大字有屋あたりから、秋田県側の湯沢市秋ノ宮あたりにかけて。ただし峠がどこにあるかは…

織田信長と兵站

本能寺の変の直前、織田信長の領土は尾張・美濃・伊勢でざっと150万石、信濃・上野でざっと100万石、北陸の越前・加賀・能登・越中でざっと150万石、近江・山城で100万石、摂津・河内・和泉・大和で100万石、丹波・丹後・但馬・因幡で60万石、播磨で50万石と…

一向一揆が成功するには

私の悪い癖は、一つの事を書くとその関連も調べたくなることです。前記事九頭竜川の戦いの兵站考察以来、ずっと一向一揆について考えています。 最初に、雑談から。国民的歴史作家司馬遼太郎に『大盗禅師』という作品があります。かなり昔に読んだ本で記憶が…

九頭竜川の合戦の兵站的考察

九頭竜川の合戦は、1506年越前の戦国大名朝倉氏と加賀一向一揆との間に行われた合戦です。この戦いに関しては以前記事に書いています。 『九頭竜川の合戦 - 朝倉氏、戦国大名への試練 -』 という記事です。 朝倉軍2万は一向一揆20万の大軍の侵攻を防ぎ戦国…