第2次長州征討は大失敗に終わり幕府の権威は失墜します。1866年12月、会津藩と容保の頼みの綱、孝明天皇が崩御されました。薩摩藩と長州藩は武力討伐で合意し薩摩派の公卿岩倉具視や新しく即位した明治天皇の外祖父中山忠能(ただやす)らを通じ長州藩朝敵赦免、討幕の密勅など宮廷工作を活発化させます。
日増しに徳川幕府を巡る情勢が不利になっていく中、15代将軍徳川慶喜は土佐藩後藤象二郎の建言を容れ1867年10月、京都二条城にて諸大名を集め政権を朝廷に返上するという所謂大政奉還を宣言しました。慶喜の読みとしては、朝廷に政治を行う能力がなく有力大名による連合政権にならざるを得ない。となると最大の領地(天領400万石、旗本の領地を入れて800万石)をもつ自分が政権の中心になるだろうという考えでした。
しかし今後の政権運営を話し合う同年12月に行われた小御所会議で慶喜は出席を認められず、薩摩の大久保一蔵(利通)、西郷吉之助らの工作で慶喜に辞官納地(官を辞し領地をすべて朝廷に返す)を求められるという最悪の結果になります。慶喜はじめ幕府方は京都を追われ大坂城に引っ込みました。この時容保も京都守護職を解任されます。側近の神保修理は容保に会津に引き上げ幕府と距離を置くよう進言しますが、容れられませんでした。
京都を追い出された幕府方は大坂城で不満を募らせます。明治天皇は大政復古の大号令を発し新天皇即位の恩赦で長州藩は朝敵認定を解除されました。京都と大坂のにらみ合いは続きます。慶喜は大坂城の要塞に籠り時世の変化を待つつもりでした。政権を取り戻したと言っても経済的に弱体だった朝廷の立ち枯れを待ったのです。
焦った薩摩藩は江戸で御用盗を雇い暴れさせ幕府を挑発します。江戸の治安を担当していた庄内藩は、薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちし幕府と薩長の対立は決定的となりました。慶喜自身は戦を望んでいなかったそうですが、数々の挑発に激高した幕府方の各藩が慶喜に京都進発を突き上げました。主戦派の幕府方諸藩を抑えきれなくなった慶喜は渋々ながらも認めてしまいます。
この時大坂城には1万5千人の兵力がありました。一方、薩長側は密かに京都に入った長州藩兵を加えても5000人程度。もし戦闘になっても簡単に勝てるという読みです。土佐藩の前藩主山内容堂は佐幕派でしたが、後藤象二郎、乾退助(板垣退助)らは勤皇派で薩長と気脈を通じていました。乾は容堂の許可を得ず勝手に土佐藩士を上洛させます。いざとなったら薩長に味方し幕府軍と戦えという密命でした。
1868年1月、1万5千の幕府軍は大坂を出発、京へ向けて北上します。京への入り口鳥羽を守っていたのは薩摩藩でした。ここでもいつものように通せ通さないと押し問答が発生し幕府方が強行突破を図ったことから戦端が開かれます。同じころ伏見でも戦闘が発生しました。
最初数に勝る幕府軍が優勢でした。しかし薩長軍に錦旗(錦の御旗)が翻ったことで戦況が一変します。これは岩倉具視と大久保一蔵が密かに用意した旗で正式なものではありませんでしたが、幕府方にそんな知識のある者はいません。自分たちが賊軍になったとパニックを起こし壊走します。会津藩や新選組は奮戦したそうですが、味方が総崩れになってはどうしようもありません。
悪いことに大坂と京都の間にある淀藩は、自軍の兵士は受け入れましたが他の幕府軍の入城を拒否します。藩主稲葉正邦は現役の老中で江戸に詰めていましたが、その藩主を見捨てて家臣たちが勝手に官軍に寝返ったのです。たしかに薩長軍が次に攻めるのは淀藩です。血祭りに上げられるよりは寝返った方がましだという現実的な判断だったのでしょうが、裏切られた幕府方にとってはたまったものではありません。
それでも山崎方面ではまだ幕府軍が粘っていました。山崎天王山の山頂に陣を構える伊勢津藩藤堂家にひそかに朝廷の使者が訪れます。すると津藩は一夜にして寝返り、大砲の砲門を南に向きかえそれまで味方だった幕府方に砲弾を撃ち込み始めました。最悪の裏切り行為です。消極的寝返りの淀藩より、積極的裏切りの津藩に対する世間の印象は最悪だったのでしょう。藩祖藤堂高虎まで裏切者の代名詞として罵られるようになります。子孫の裏切り行為で自分まで悪く言われたのですから高虎は草葉の陰でさぞ怒っていることでしょう。
徳川慶喜としては、此処で負けても大坂城に籠城して戦えば勝機はあったと思います。しかし勤皇思想を幼少期から叩き込まれた慶喜にとって朝敵になったという衝撃は計り知れないものがありました。籠城を叫ぶ幕府方将兵を見捨て密かに大坂城を脱出します。その際責任が自分だけに及ぶことを避けたかったのか、前京都守護松平容保、前京都所司代松平定敬の兄弟も伴いました。最初容保は脱出を拒否したそうですが、慶喜に懇願され仕方なく従います。この時も、神保修理は主君に家臣を見捨てて逃亡することを諫めたそうですが容保は聞き入れませんでした。
総大将に見捨てられた大坂城の兵士は哀れでした。各藩ごとに自分たちの国元へ脱出していきます。会津藩も例外ではありませんでした。江戸に集結した会津藩兵は主君容保に不満をぶつけます。藩上層部は容保を守るため側近の神保修理にすべての責任を押し付け切腹を命じました。修理と親交のあった勝海舟は何とか救い出そうとしますがこれが裏目に出ます。会津藩抗戦派の怒りが増幅しついに修理はすべての責任を負って自刃しました。歴史にIFは禁物ですが、もし神保修理が生きていたらその後の悲惨な会津戦争は避けられたかもしれません。その前に容保が自身の責任を認め藩主の座から降り慶喜同様謹慎していたら…。
すべては後の祭りですが、会津藩はこの後坂道を転げ落ちるように転落の道を歩みます。次回は奥羽越列藩同盟の成立について語りましょう。