鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

#日本史

和船の復原力

ランキング参加中歴史 復原力、あるいは復原性というのは、波や風の力、あるいは旋回時に船が傾いた時元の姿勢に戻れる能力のことを言います。私は復元力と記憶していたんですが調べてみると復原力が正しい用語だそうです。 常識的に考えて、船の上部が重す…

和船の構造

ランキング参加中歴史 西洋帆船を造る場合最初にキール(竜骨)を船の中心軸になるように設置します。キールは船の外郭に合わせて下向き弓なりになりますが、そのキールに対し直角にU字型の骨組みを重ねていき、最後に骨組みの外郭に沿って板を張り付け水漏…

徳川幕府草創期の政争Ⅲ 宇都宮釣り天井事件

ランキング参加中歴史 最大の政敵大久保忠隣を倒した本多正純。大御所家康の意向を嵩に幕政を壟断します。正純の父正信は苦労人でした。若いころ松平家を出奔し三河一向一揆に参加、家康(当時は松平元康)と敵対します。各地で一向一揆の将として迎えられ織…

徳川幕府草創期の政争Ⅱ 大久保忠隣(ただちか)の失脚

ランキング参加中歴史 大久保忠隣(1553年~1628年)は、徳川二代将軍秀忠の側近として重きをなし相模小田原6万5千石の大名となります。三河一向一揆鎮圧を皮切りに姉川合戦、三方ヶ原合戦、小牧・長久手の役、小田原合戦など数々の戦いに従軍し武功をあげま…

徳川幕府草創期の政争Ⅰ 大久保長安事件

ランキング参加中歴史 大久保長安と言えば、私が歴代大河ドラマで五本の指に入ると評価する大傑作『徳川家康』の津川雅彦の印象が強烈です。大久保長安(1545年~1613年)は徳川家康に仕えた金山奉行でした。 大久保長安は猿楽師大蔵信安の次男として生まれ…

会津四郡の石高

ランキング参加中歴史 俗に会津40万石と言われます。現在の福島県に当たる陸奥国南部は大きく三つの地方に分かれます。阿武隈山地から海岸までの浜通り、奥羽山地と阿武隈山地に挟まれた中通り、奥羽山地の西、会津盆地を中心とした会津地方です。 会津地方…

シャクシャインの乱 江戸時代初期に起こったアイヌの大反乱

北海道静内町。競馬ファンなら数々の名馬を生み出した牧場が存在する土地として有名でしょう。静内町はかつてアイヌ語でシブチャリと呼ばれていました。この地の首長シャクシャインが起こした反乱は、地元松前藩だけでなく弘前藩、盛岡藩、秋田(久保田)藩…

太平記の兵力の記述は大幅に盛っている

足利尊氏が九州に落ちてわずか500の兵で菊池武敏60000の兵と戦って勝ったってマジかよ?! 歴史に興味のない方からするとどうでも良い話ですが、吾妻鑑、太平記に出てくる数字はたいてい盛っています。承久の乱で幕府軍19万騎というのも当時の人口、石高から…

明智光秀、進士藤延後身説

明智光秀、織田信長の重臣として活躍するも本能寺の変で主君信長を討った武将です。さすがに知らない人は居ないと思いますが、実は彼の前半生は謎に包まれています。一応、美濃源氏土岐氏の一族で美濃明智荘を領した明智氏の一族だと言われます。しかし、は…

国司信濃は高師泰の子孫

久しぶりの日本史記事ですがあまりにもマイナーだから興味ある方はほとんどいないと思います。 国司信濃、本名国司親相(くにし ちかすけ)。幕末の長州藩家老です。21歳の若さで家老就任、1864年の禁門の変では益田右衛門介、福原越後ら他の家老と共に長州…

中世の兵站

過去記事で1980年代のアメリカ歩兵師団(実質機械化歩兵師団)の1日補給量が攻勢時で3300トン、防御時で4000トンという膨大な物資を消費することを書きました。現代ではもっと機械化が進み補給量は鰻上りでしょう。機械化されていなかった大戦以前の日本歩兵…

長州藩諸隊の兵力

1963年、米英仏蘭4カ国艦隊による下関攻撃が起こります。これは長州藩が攘夷と称し馬関海峡を通る外国船を砲撃したことに対する報復でした。馬関戦争あるいは下関戦争と呼ばれる戦いで長州軍は4カ国艦隊による圧倒的火力に惨敗、攘夷の非現実性を思い知らさ…

会津戦争余話2 ヤーゲル銃とミニエー銃

ヤーゲル銃、幕末の歴史に詳しい人でも聞きなれない銃だと思いますが、会津戦争時、会津藩など東北諸藩が好んで使った銃でした。ヤーゲル銃はこれまでのゲベール銃の銃身にライフリングを施しただけの銃です。マスケット銃にライフリングを施した銃というと…

会津戦争余話 山本帯刀(たてわき)

いつものごとく、歴史記事で長編を書き終わるとなかなかその余韻が覚めません。今回の会津戦争も書きたいことが多すぎて本編に入りきれないものが多数ありました。なるだけ簡潔に分かりやすくがモットーの弊ブログですので、泣く泣くカットした次第です。 そ…

会津戦争9 『鶴ヶ城落城』(終章)

1868年8月23日から始まった会津鶴ヶ城攻防戦。日光口、白河口など各地に散っていた会津藩兵で間に合って入城できたものは千数百人にすぎませんでした。藩士の正規兵で3500人、庶民の強制動員も含めて9400人いたとされる会津軍ですが、ほとんどの兵力は軍事用…

会津戦争8 『白虎隊の悲劇』

母成峠が突破されたことで、会津盆地に新政府軍が雪崩れ込みました。1868年8月22日、会津藩の前哨基地猪苗代城が落城します。同じころ北越戦争でも長岡藩敗北、援軍の会津軍と共に会津領に退くも、敵弾を受け負傷していた長岡藩執政河井継之助は会津領塩沢村…

会津戦争7 『血戦!母成峠』

奥羽越列藩同盟にとって奥羽鎮撫総督府の九条総督は錦の御旗でした。彼を軟禁している限り人質としても新政府を脅す材料になるからです。ところが九条総督一行は仙台藩領から久保田(現在の秋田県)藩領に逃げ込みます。これは同盟側の大失態ともいえる出来…

会津戦争6 『白河口攻防戦』

奥羽越列藩同盟と言っても明治新政府が許すはずもない会津藩、庄内藩は別として奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵を殺害した仙台藩と何故か積極的抗戦派の米沢藩以外の諸藩は新政府と戦争したくなかったと思います。それはそうでしょう。関東や北陸以西(長岡藩…

会津戦争5 『奥羽越列藩同盟』

会津藩関係者や会津贔屓の人は松平容保を名君と評すでしょう。しかし私は暗君とまではいわないまでも凡庸であったと評します。その上貴人特有の酷薄さを持ち合わせていました。 まず鳥羽伏見の敗戦の後、家臣を見捨てて江戸に逃亡したことは非難されてしかる…

会津戦争4 『鳥羽伏見の戦い』

第2次長州征討は大失敗に終わり幕府の権威は失墜します。1866年12月、会津藩と容保の頼みの綱、孝明天皇が崩御されました。薩摩藩と長州藩は武力討伐で合意し薩摩派の公卿岩倉具視や新しく即位した明治天皇の外祖父中山忠能(ただやす)らを通じ長州藩朝敵赦…

会津戦争2 『薩会同盟と新選組』

容保の京都守護職就任当時、京では浪士による騒擾が激しさを増していました。不逞浪士の逮捕は京都町奉行所の役目でしたが、あまりにも数が多く手に負えないため会津藩士が出動するケースが増えていました。容保は藩士に不浄の役目をさせるに忍びず、悩みま…

会津戦争1 『京都守護職』

江戸時代、美濃国石津郡高須(現在の岐阜県海津市)に高須藩3万石がありました。徳川御三家筆頭、尾張藩徳川家の支藩で尾張徳川宗家に嗣子が絶えたときこれを相続する役目を帯びていました。いわば徳川将軍家に対する御三家の役割の尾張徳川家版が美濃高須藩…

会津戦争序章『会津藩の成り立ち』

江戸期会津藩のあった会津地方は福島県の内陸部にありました。福島県の地勢は大きく3つに分かれます。すなわち奥羽山脈の西会津盆地を中心にした会津地方。奥羽山脈と阿武隈山地に挟まれた中通り。中通りは阿武隈川が中心を流れ主要幹線奥州街道が走っている…

奥羽越列藩同盟諸藩の事情

最近また戊辰戦争に興味を持ち『会津戦争のすべて』という文庫本を買いました。まだ手を付けてないんですが読了したら記事にするかもしれません。それはともかく、幕府に殉じ最初から薩長と敵対していた会津藩、庄内藩はともかくとして仙台藩、米沢藩はじめ…

遊女の子供だとされる歴史上の人物

先日NHKでおそらく応仁の乱関連の番組だと思いますが、畠山義就(よしなり)のことを「よしひろ」「よしひろ」と連呼していたことに非常に違和感を覚えました。義就が偏諱を与えた人物、遊佐就家や遊佐就盛の就は普通「なり」と呼ばれることが多いんですから…

平安奥羽の戦乱Ⅺ 最後の勝利者(終章)

源義家、清原清衡の連合軍が再び陸奥を発したのは1087年夏でした。春の予定がずれ込んだのは、前回の失敗を懲り十分な兵糧を準備したからかもしれません。義家の威信にかけても今回は負けられない戦でした。弟新羅三郎義光の参加があり、地盤の関東から参加…

平安奥羽の戦乱Ⅹ 後三年の役

清原家衡が自邸のある陸奥国奥六郡ではなく出羽国仙北三郡の沼柵に籠城したのは、なんと言っても清原氏の本拠地であり一族の助力が期待できたからでした。奥六郡は滅亡した安倍氏の勢力が強く、安倍頼時の娘(有)と藤原経清の子である清衡に味方するものが…

平安奥羽の戦乱Ⅸ 骨肉の争い

※ 清原家衡 陸奥守源義家の命で兄清衡の豊田館に入った家衡。兄弟の母有も同行したそうです。母にとっては久々に訪れた親子団らんの時でした。しかし清衡と家衡の間には表面上の和やかさと違い冷たい空気が流れます。おそらく清衡は弟家衡に決して気を許して…

平安奥羽の戦乱Ⅷ 清原一族の内訌

清原真衡の挑発に乗り出羽の領地に戻った吉彦秀武。吉彦氏のルーツは俘囚の吉美侯部(きみこべ)から来ているとも、毛野(けぬ)地方(栃木、群馬)の豪族毛野氏の一族が大和朝廷の出羽征服に従ってこの地に至り俘囚の長となったとも言われます。吉彦氏の本…

平安奥羽の戦乱Ⅶ 運命の子

鎌倉時代の源氏を中心とした歴史を記した『吾妻鑑』によると、安倍頼時には三人の娘がいたそうです。長女は有加 一乃末陪(ありか いちのまえ、生没年不詳)といいました。次女は中加一乃末陪、三女が一加一乃末陪です。明らかに蝦夷風の名前ですから便宜的…