#日本史
過去記事で1980年代のアメリカ歩兵師団(実質機械化歩兵師団)の1日補給量が攻勢時で3300トン、防御時で4000トンという膨大な物資を消費することを書きました。現代ではもっと機械化が進み補給量は鰻上りでしょう。機械化されていなかった大戦以前の日本歩兵…
1963年、米英仏蘭4カ国艦隊による下関攻撃が起こります。これは長州藩が攘夷と称し馬関海峡を通る外国船を砲撃したことに対する報復でした。馬関戦争あるいは下関戦争と呼ばれる戦いで長州軍は4カ国艦隊による圧倒的火力に惨敗、攘夷の非現実性を思い知らさ…
ヤーゲル銃、幕末の歴史に詳しい人でも聞きなれない銃だと思いますが、会津戦争時、会津藩など東北諸藩が好んで使った銃でした。ヤーゲル銃はこれまでのゲベール銃の銃身にライフリングを施しただけの銃です。マスケット銃にライフリングを施した銃というと…
いつものごとく、歴史記事で長編を書き終わるとなかなかその余韻が覚めません。今回の会津戦争も書きたいことが多すぎて本編に入りきれないものが多数ありました。なるだけ簡潔に分かりやすくがモットーの弊ブログですので、泣く泣くカットした次第です。 そ…
1868年8月23日から始まった会津鶴ヶ城攻防戦。日光口、白河口など各地に散っていた会津藩兵で間に合って入城できたものは千数百人にすぎませんでした。藩士の正規兵で3500人、庶民の強制動員も含めて9400人いたとされる会津軍ですが、ほとんどの兵力は軍事用…
母成峠が突破されたことで、会津盆地に新政府軍が雪崩れ込みました。1868年8月22日、会津藩の前哨基地猪苗代城が落城します。同じころ北越戦争でも長岡藩敗北、援軍の会津軍と共に会津領に退くも、敵弾を受け負傷していた長岡藩執政河井継之助は会津領塩沢村…
奥羽越列藩同盟にとって奥羽鎮撫総督府の九条総督は錦の御旗でした。彼を軟禁している限り人質としても新政府を脅す材料になるからです。ところが九条総督一行は仙台藩領から久保田(現在の秋田県)藩領に逃げ込みます。これは同盟側の大失態ともいえる出来…
奥羽越列藩同盟と言っても明治新政府が許すはずもない会津藩、庄内藩は別として奥羽鎮撫総督府下参謀世良修蔵を殺害した仙台藩と何故か積極的抗戦派の米沢藩以外の諸藩は新政府と戦争したくなかったと思います。それはそうでしょう。関東や北陸以西(長岡藩…
会津藩関係者や会津贔屓の人は松平容保を名君と評すでしょう。しかし私は暗君とまではいわないまでも凡庸であったと評します。その上貴人特有の酷薄さを持ち合わせていました。 まず鳥羽伏見の敗戦の後、家臣を見捨てて江戸に逃亡したことは非難されてしかる…
第2次長州征討は大失敗に終わり幕府の権威は失墜します。1866年12月、会津藩と容保の頼みの綱、孝明天皇が崩御されました。薩摩藩と長州藩は武力討伐で合意し薩摩派の公卿岩倉具視や新しく即位した明治天皇の外祖父中山忠能(ただやす)らを通じ長州藩朝敵赦…
容保の京都守護職就任当時、京では浪士による騒擾が激しさを増していました。不逞浪士の逮捕は京都町奉行所の役目でしたが、あまりにも数が多く手に負えないため会津藩士が出動するケースが増えていました。容保は藩士に不浄の役目をさせるに忍びず、悩みま…
江戸時代、美濃国石津郡高須(現在の岐阜県海津市)に高須藩3万石がありました。徳川御三家筆頭、尾張藩徳川家の支藩で尾張徳川宗家に嗣子が絶えたときこれを相続する役目を帯びていました。いわば徳川将軍家に対する御三家の役割の尾張徳川家版が美濃高須藩…
江戸期会津藩のあった会津地方は福島県の内陸部にありました。福島県の地勢は大きく3つに分かれます。すなわち奥羽山脈の西会津盆地を中心にした会津地方。奥羽山脈と阿武隈山地に挟まれた中通り。中通りは阿武隈川が中心を流れ主要幹線奥州街道が走っている…
最近また戊辰戦争に興味を持ち『会津戦争のすべて』という文庫本を買いました。まだ手を付けてないんですが読了したら記事にするかもしれません。それはともかく、幕府に殉じ最初から薩長と敵対していた会津藩、庄内藩はともかくとして仙台藩、米沢藩はじめ…
先日NHKでおそらく応仁の乱関連の番組だと思いますが、畠山義就(よしなり)のことを「よしひろ」「よしひろ」と連呼していたことに非常に違和感を覚えました。義就が偏諱を与えた人物、遊佐就家や遊佐就盛の就は普通「なり」と呼ばれることが多いんですから…
源義家、清原清衡の連合軍が再び陸奥を発したのは1087年夏でした。春の予定がずれ込んだのは、前回の失敗を懲り十分な兵糧を準備したからかもしれません。義家の威信にかけても今回は負けられない戦でした。弟新羅三郎義光の参加があり、地盤の関東から参加…
清原家衡が自邸のある陸奥国奥六郡ではなく出羽国仙北三郡の沼柵に籠城したのは、なんと言っても清原氏の本拠地であり一族の助力が期待できたからでした。奥六郡は滅亡した安倍氏の勢力が強く、安倍頼時の娘(有)と藤原経清の子である清衡に味方するものが…
※ 清原家衡 陸奥守源義家の命で兄清衡の豊田館に入った家衡。兄弟の母有も同行したそうです。母にとっては久々に訪れた親子団らんの時でした。しかし清衡と家衡の間には表面上の和やかさと違い冷たい空気が流れます。おそらく清衡は弟家衡に決して気を許して…
清原真衡の挑発に乗り出羽の領地に戻った吉彦秀武。吉彦氏のルーツは俘囚の吉美侯部(きみこべ)から来ているとも、毛野(けぬ)地方(栃木、群馬)の豪族毛野氏の一族が大和朝廷の出羽征服に従ってこの地に至り俘囚の長となったとも言われます。吉彦氏の本…
鎌倉時代の源氏を中心とした歴史を記した『吾妻鑑』によると、安倍頼時には三人の娘がいたそうです。長女は有加 一乃末陪(ありか いちのまえ、生没年不詳)といいました。次女は中加一乃末陪、三女が一加一乃末陪です。明らかに蝦夷風の名前ですから便宜的…
清原氏参戦で形勢は完全に逆転します。小松柵攻略後9月5日まで長雨が続き源氏軍は動きが取れませんでした。安倍貞任は数千の手勢を率い源氏軍に奇襲を試みますが失敗に終わります。頼義は直ちに追撃を命じ途中にある柵を次々と攻略、敵の本拠地衣川柵を包囲…
※ 清原武則 日本史で清原氏と言えば舎人親王を始祖とする皇別氏族。平安時代には中級貴族となり清少納言が有名です。出羽清原氏はこの清原氏の後裔を称しますが良く分かりません。出羽国府の在庁官人だったことは確かですが、朝廷から出羽の俘囚長に任命され…
亘理権大夫藤原経清の寝返りで源頼義の作戦は安倍軍に筒抜けになります。衣川柵を中心に領内各地の柵で頑強に抵抗する安倍軍を攻めあぐねた頼義は、奥六郡のさらに北、糠部の蝦夷(現在の八戸市を中心とした青森県東部)に使者を出し安倍氏を南北から挟撃し…
清和源氏の主流となった河内源氏と関東の関りは、頼義の父で河内源氏初代頼信が朝廷の命を受け1028年房総半島で起こった平忠常の乱を平定してからです。頼信は反乱鎮圧に際し関東の武士たちを動員し主従関係を結びました。頼義は、父頼信の勢力を引き継ぎ関…
平安時代の奥羽地方を揺るがした前九年の役の原因は諸説あります。一つは奥六郡の郡司として強大な勢力に成長した安倍氏を危険視し陸奥守藤原登任(なりとう)が故意に仕掛けたという説。あるいは奥六郡の金を独占しようとした登任が邪魔になった安倍氏を挑…
1993年NHKで放送された大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』。藤原経清を主人公に前九年の役を描く第一部、その子藤原清衡を主人公に後三年の役を描く第二部、奥州藤原氏最後の当主泰衡を主人公に奥州藤原氏滅亡を描く第三部の三部構成で私の中では五本の指に入る…
何気なしに戦国武将の鎧をネットで見ていたんですが、本多忠勝の有名な鹿の角の兜を見つけた時「そういえば本多家は幕末にはどこが領地だったんだろう?」と気になりました。せっかくなので徳川四天王全て調べてみることに。 ちなみに徳川四天王を知らない人…
【考古学】弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡 ちょっと古いニュースですが、時期的に魏志倭人伝にある倭国大乱くらいですね。この謎が解ければ邪馬台国の範囲も分かると思うんですよ。すでに佐賀の吉…
薩摩藩の幕末維新を書き終えましたが、余韻が冷めやりません。本編では書ききれなかったエピソードがいくつかあるのでご紹介します。 薩軍に参加した熊本県の部隊は、宮崎八郎の協同隊の他に池辺吉十郎、佐々友房を指導者とする熊本隊7百名がいました。こち…
西郷軍が人吉盆地から宮崎県に入った時3千人程度に減っていました。新政府軍はこれを鎮圧するため第1旅団、第2旅団、第3旅団を主力とする7万人にも及ぶ大部隊を集めます。すでに三月七日西郷軍の根拠地鹿児島に官軍千数百名が上陸占領していました。官軍には…