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平安奥羽の戦乱Ⅵ 厨川柵陥落

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 清原氏参戦で形勢は完全に逆転します。小松柵攻略後9月5日まで長雨が続き源氏軍は動きが取れませんでした。安倍貞任は数千の手勢を率い源氏軍に奇襲を試みますが失敗に終わります。頼義は直ちに追撃を命じ途中にある柵を次々と攻略、敵の本拠地衣川柵を包囲しました。翌9月6日、源氏軍は総攻撃を開始します。戦闘は午後2時から8時まで続きますが、安倍軍は頑強に抵抗し決着がつきませんでした。清原武則は秘かに兵士を潜り込ませ柵の内部から火をつけました。安倍軍と清原軍の軍装が似ていた為気づかれなかったのでしょう。内通者が出たと勘違いした貞任は驚いて衣川柵を放棄、鳥海柵に逃げ込みます。

 頼義は追撃の手を緩めず、途中発生した合戦で安倍一族は多くの犠牲者を出しました。安倍一族の時任(貞任の弟?)や貞行もこの時討ち取られます。貞任は奥六郡の最奥で最も要害だった厨川柵を最後の防衛線に定めました。厨川柵は現在の盛岡市天昌寺町から安倍館町一帯にあったとされ、天昌寺台地がその中核だったと言われます。当時は北上川がすぐ東を流れ、比高10mの台地の上にありました。西側にも深い堀を二重に設けた難攻不落の要塞です。

 もともと厨川柵は貞任の根拠地で勝手知ったる地、貞任はこの地で最後の決戦をしようと覚悟したのでしょう。1062年9月15日、源氏軍は早くも厨川柵に到達しました。途中にも柵はいくつかあったはずですが、貞任は厨川柵に戦力を集めるため放棄したのでしょう。16日朝8時より源氏軍の総攻撃が始まります。後のない安倍軍も激しくに抵抗しこの日は決着がつきませんでした。

 一度は撃退したものの安倍軍は疲れ果てていました。兵士も傷を負っていない者は少なく戦いが終わると倒れ込むように眠ったそうです。私の推定ですがこの時厨川柵には兵士2千もいなかったと思います。度重なる敗戦で死傷者も出るでしょうし、安倍氏の行く末を見限り逃亡する兵も出たでしょう。17日、頼義は作戦を変えてきます。土砂を運んで堀を埋め萱草を積んで火を放ったのです。このままでは焼け死ぬのを待つばかりだと悟った貞任は動ける手勢を率い柵門を開いて打って出ました。が、待ち構えていた源氏軍に包まれ貞任はじめ叔父良照ら主だった一族はことごとく討死します。藤原経清は負傷して動けなくなったところを生け捕られました。

 貞任の弟宗任は、一旦逃れたものの自首して降伏します。意外と頼義は生き残った安倍一族には寛大でした。貞任の嫡子だけは探し出されて斬られますが、それ以外の女子供は許されたようです。宗任も命を助けられ九州大宰府流罪となりました。一説では最初伊予国に流され、その後筑前宗像の大島に再配流されたとも言われます。

 宗任は海外貿易の知識を買われ筑前の豪族宗像氏の客分となったそうです。宗任は宗像氏の日朝、日宋貿易を仲介し1108年77歳で亡くなりました。ちなみに現在の内閣総理大臣安倍晋三氏はこの安倍宗任の子孫だと言われます。

 安倍一族には寛大だった頼義ですが、一人だけ例外がいました。それは陸奥国府の官人でありながら裏切って安倍氏に味方した藤原経清です。頼義の前に引き出された経清は頼義を睨みつけ罵ったと言われます。それを冷酷な目で眺めていた頼義は、わざと刃こぼれし錆びた刀で経清の首を斬らせました。ただし、経清の正室である安倍頼時の娘と経清の忘れ形見7歳の少年清丸だけは助けられます。これも頼義の慈悲というより、奥六郡に長らく君臨した安倍氏の一族を根絶やしにするとその後の占領政策がやりにくくなるという打算もあったと思います。

 平安時代、奥州を揺るがした大乱前九年の役はここに終わりました。頼義は討ち取った貞任、重任、経清の首を掲げ京都に凱旋します。物見高い京都の民衆は凱旋将軍と叛徒の首を見るため溢れかえったと伝えられます。頼義は反乱鎮圧の功績で正四位下伊予守に任じられました。伊予は四国随一の大国、豊かな国で論功行賞としてはまずまずです。しかし陸奥国の良馬と黄金を手中にしようとしていた頼義にとっては、複雑な心境だったでしょう。さらに腹の立つことは、朝廷が頼義の後任の鎮守府将軍に俘囚長に過ぎない清原武則を任命したことです。朝廷としても武門の棟梁を自認する源頼義にこれ以上力をつけられては困るのです。その複雑な政治力学が清原武則鎮守府将軍就任でした。俘囚長の鎮守府将軍任官はもちろん史上初です。


 ただこれで平和が続くはずはありません。戦後処理は多くの者に不満を残しました。次回清原一族の内訌と藤原経清の忘れ形見清丸の苦悩を描きます。