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薩摩藩の幕末維新Ⅸ 西南戦争

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 明治十年二月挙兵が決まった薩摩軍ですが、方針を巡っては分かれます。西郷の弟小兵衛は長崎を奇襲し軍艦を奪取、一気に海路を進んで東京に上陸する案を主張します。桐野利秋は、かつて熊本鎮台司令官だったことから「百姓兵が守る熊本鎮台など恐るるに足りず。西郷大将が向かうと知ったら即降伏しもっそ」と鹿児島から熊本に進み九州を占領し、東京に向かう戦法を主張しました。冷静に考えると、時間をかければかけるほど新政府軍は全国から兵力を集中するので薩軍は不利になるはずです。西郷小兵衛の案は一見無謀の様ではあるが、政府に時間的余裕を与えないという意味では一番可能性が高い作戦だったかもしれません。

 西郷自身は、この戦の行く末が分かっていたと思います。しかし自分を慕う若者たちを見捨てる気にはなれず自分の身を彼らに預けていたのでしょう。薩摩軍は1個大隊2千名からなる5個大隊と若干の補助部隊を含め1万3千名。桐野利秋村田新八篠原国幹ら私学校幹部が大隊長として指揮しました。明治十年二月十五日薩摩軍はついに北上を開始します。この日は50年ぶりとも言われるほどの雪の日でした。

 北上した薩摩軍は新政府軍の拠点熊本鎮台を囲みます。当時の鎮台司令官は土佐出身の陸軍少将谷干城。参謀長は薩摩の樺山資紀中佐、参謀副長児玉源太郎(長州)少佐、大隊長奥保鞏(小倉)少佐など後に日清日露戦争で活躍する人材が守っていました。熊本鎮台兵力3千。西郷軍動くという急報を受けた新政府は、2月19日有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督に任命し各鎮台から兵力を動員九州に向かわせました。ただ有栖川宮は名目上の総司令官で、実質的な政府軍の指揮は参軍(副司令官)に任命された陸軍卿山県有朋中将、海軍卿川村純義中将がとります。

 二月二十一日、熊本城を包囲した薩軍は、熊本鎮台軍の頑強な抵抗にあい攻めあぐみます。意外なことに江戸初期、加藤清正が築いた熊本城は薩軍の攻撃にもびくともしませんでした。薩軍は、本営を熊本南部の川尻に置き総大将西郷隆盛はここに滞在しました。熊本城が短期間では落ちないと分かった薩軍は若干の包囲の兵力を残し主力は北上、迫りくる新政府軍の迎撃に向かいます。

 西郷立つのニュースは全国の不平士族を狂喜させました。熊本では宮崎八郎率いる熊本協同隊が参加したほか九州各地の士族が薩軍に合流、3万以上に膨れ上がります。宮崎八郎孫文を助けた宮崎滔天の実兄、中江兆民に学んだ自由民権運動家で植木学校を設立、薩軍とは思想が全く逆でしたが、新政府軍に対抗するという意味で参加しました。

 北上した薩軍は、植木で小倉から南下してきた乃木希典少佐率いる歩兵第14連隊とぶつかります。この時不意を打たれた第14連隊は潰走し、軍旗を奪われるという恥辱を受けました。乃木はこの事を生涯悔いたそうです。ようやく兵力をまとめた乃木は、木葉(玉東町)で戦国時代の城跡稲佐山に籠城しました。が、準備不足から背後の木葉山麓より薩軍の夜襲を受け、再び敗走します。菊池川を越え石貫(玉名市)まで逃れ、ここでようやく野津鎮雄少将率いる第1旅団と合流し一息つきました。

 新政府軍は菊池川の線を防衛拠点に定め高瀬(玉名市)に本営を置きます。薩軍は桐野隊が山鹿にまで進出、新政府軍第1旅団、第2旅団が守る高瀬に攻撃の焦点を定めました。高瀬は熊本県北部の要衝、江戸期は菊池川水運の中心で福岡から熊本北部に至るルート、海岸沿いの荒尾口、西国街道の南関口、内陸の山鹿口から至る合流点でした。高瀬を失陥すると福岡県までの防衛が難しくなり薩軍の北上を阻止できません。

 不退転の決意をした新政府軍に対し、薩軍は山鹿から桐野隊を呼び戻し篠原隊、村田隊と主力を投入、二月二十五日攻撃を開始しました。高瀬の戦いは三度行われますが、新政府軍は菊池川の堤防を遮蔽物としスナイドル銃の猛射で薩軍を防ぎます。薩軍は合流を待つことなく各隊ばらばらに攻撃を開始するという致命的失策を犯しました。膠着した戦線に業を煮やした小隊長西郷小兵衛は手勢を率いて突撃します。が、これは無謀な攻撃でした。新政府軍の猛烈な射撃を受け戦死、享年31歳。

 高瀬の戦いが西南戦争のターニングポイントになります。薩軍は、南下する新政府軍を防ぐため高瀬と熊本の間にある丘陵地帯、田原坂に陣地を築きました。田原坂西南戦争最大の激戦となります。高瀬方面から熊本に至る道のうち、海岸ルートを除けば田原坂金峰山系の山麓を通る吉次峠のみが大砲の通れる道でした。現在の地図では玉名から植木に至る国道3号線がありますが、当時は湿地で道がありません。


 次回、西南戦争最大の戦い田原坂の激闘を描きます。