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薩摩藩の幕末維新Ⅶ 明治六年の政変

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 明治二年(1869年)、薩摩藩長州藩土佐藩の上表という形で行われた版籍奉還。これは各藩が支配する土地と領民を朝廷(新政府)に返還するという政治改革ですが、藩境はそのまま、旧藩主を藩知事に任命するというもので、江戸時代の社会体制と実質的にはほとんど変わりません。江戸期に270余りあった藩を統廃合し新政府が一元支配できるいくつかの県にする廃藩置県が急務でした。

 ただ、諸藩の反発は必至で深刻な内戦に陥る可能性もあり、独自の武力を持たない明治新政府は対応に苦慮します。兵部少輔山県有朋の献策で、薩摩藩長州藩土佐藩からそれぞれ藩兵を差し出させ政府の直轄軍とする御親兵制度が採用されました。御親兵は後に近衛兵に発展するのですが、それを指揮する人物として西郷隆盛が選ばれました。西郷はそのころ鹿児島に帰り、全国不平士族の希望となっており、新政府としては西郷を政府に取り込んで反乱を未然に防ぐという巧妙な策でもあったのです。

 薩摩藩から歩兵4個大隊・砲隊4隊、長州藩3個歩兵大隊、土佐藩は歩兵2個大隊、騎兵2個小隊、砲隊2隊をそれぞれ供出します。西郷は日本で唯一の陸軍大将としてこれを指揮し、軍政は近衛局が担当しました。近衛局長官にも薩摩の篠原国幹が陸軍少将となって起用。ただこれとは別に兵部大輔大村益次郎は、国民皆兵と鎮台制による近代陸軍を創設していました。大村は間もなく暗殺されますが、伝統は受け継がれ明治4年廃藩置県を受け同年10月仙台、東京、大坂、熊本の四鎮台が初めて置かれます。近衛兵と鎮台、似たような役割を持つ二つの組織は微妙な関係となって行きました。薩摩閥の多い近衛兵、長州閥が牛耳る鎮台。

 明治新政府は外国的にも深刻な問題を抱えていました。江戸末期に結ばれた不平等条約です。新政府は、西洋列強並みの近代国家に生まれ変わることで、交渉を有利に進めようと西洋列強の優れた文明を視察する岩倉具視を全権大使、木戸孝允大久保利通を副使とする大規模な使節団を欧米に派遣することを決めます。これは明治新政府の首脳の半数近い数で、大久保は留守を守る西郷ら参議たちに、使節団が帰ってくるまでは現状維持に努め新たな政策を行わないなど12か条に渡る約定を認めさせます。岩倉使節団明治4年12月、日本を離れました。

 途中、大久保と木戸が意見の相違から早めに帰国します。すると、留守政府は大久保との約定を破り学制改革、地租改正、断髪廃刀許可令など勝手に改革を進めていました。また、参議の構成が薩摩一人(西郷)、土佐二人、肥前三名と驚くべき比率になってることにも激怒します。これは肥前江藤新平が画策したことで、江藤は彼なりに国家を思ってのことでした。江藤はフランス民法典を基に日本の民法を作った男です。頭が切れすぎるのが長所であり最大の欠点。似たタイプの大久保とは犬猿の仲でした。

 大久保が不在の間留守政府と李氏朝鮮の間に開国を巡る外交紛争が勃発、西郷は自分が使者になって朝鮮に赴き解決しようという所謂征韓論を主張します。西郷の真意は分かりませんが、維新によって生活が困窮した士族を救うために朝鮮で戦乱を起こそうとしたという説、単純に死に場所を求め朝鮮使節を最後のご奉公にしようとした説など数多くの意見がありはっきりしません。ただ留守政府はおおむね西郷支持の征韓論派、欧米列強の近代文明を見て彼らの実力を痛いほど理解した大久保、木戸らは「今は外に赴く時ではない」と内治派でした。

 閣議は、征韓派と内治派に分かれ紛糾します。土佐の板垣退助肥前の江藤らは心の底から西郷の征韓論を支持していたわけではなく、この紛糾を利用し薩摩の勢力弱体化を狙っていたふしがないとも言い切れません。閣議を主導すべき太政大臣三条実美は板挟みにあい苦慮しました。「すべては岩倉が帰国してから」と決断の責任から逃れます。三条と言えば、公卿でありながら幕末期過激な攘夷派として生死を彷徨うような激しい活動をしてきたはずですが、この頃は公卿の精神的弱さばかりが目立ちました。両派から激しく突き上げられた三条はノイローゼとなり病気と称し太政大臣を辞任します。

 明治六年(1873年)九月、右大臣岩倉具視帰国。参議内務卿大久保利通は巻き返しを図り岩倉に接近。征韓派の大隈重信大木喬任を抱き込むます。議決は征韓派4、内治派4で全くの同数となりました。岩倉は秘かに明治天皇に拝謁し内治派の意見を上奏、天皇がこれを容れられたため朝鮮使節派遣は中止となります。政争に敗れた西郷、板垣、江藤、副島らは辞表を提出しました。これを明治六年の政変と呼びます。西郷は絶望し鹿児島に帰る決意をしました。

 問題は西郷だけではありません。西郷帰国を聞いて桐野利秋村田新八ら西郷を慕う薩摩出身者が数多く同調したことです。最初は説得し押しとどめようとしていた近衛局長官篠原国幹までが帰国を決断したと聞いて、彼を高く評価していた大久保は嘆いたと言われます。




 薩摩は、大久保ら東京残留組と西郷達鹿児島帰国組に完全に二分されました。西郷達はどう動くのでしょうか?次回、鹿児島私学校設立と西南戦争に至る流れを記します。