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薩摩藩の幕末維新Ⅵ 戊辰戦争

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 鳥羽伏見の戦いの結果朝敵となった旧幕府。決して本意ではなかったが結果として朝敵となった徳川慶喜薩摩藩を主導していた西郷大久保らの真意は、徳川家を滅ぼさない限り明治維新は成り立たないという強い意志でした。現実的な話をすると、新政府と言っても財源がなく徳川家の持つ天領400万石、そのほか最後まで徳川家に忠誠を誓う藩の領地を召し上げなければ日本を統治できなかったのです。

 薩長側に錦旗が渡り官軍となった時、日和見だった各藩が雪崩を打って官軍側に寝返ったのは、何も勤王倒幕に全面的に賛成したわけでなく、負けて領地没収される側に回ればたまったものではないという事でした。幕末期、各藩に佐幕派尊王攘夷派は居ました。これは薩長ですら例外ではなく、どちらが藩内で主導権を握ったかの違いでしかありません。ただ、西国雄藩に尊王攘夷(勤王倒幕)派が多く、東国に佐幕派が多かったのは、西は長崎を通じて海外からの情報に触れやすく、東はそうでなかったという差だけです。その中でも越後長岡藩河井継之助ら一部例外的に海外の情報に通じた優れた人材はいました。

 江戸に逃げ帰った慶喜は、主戦派の小栗上野介を罷免、自身は上野寛永寺に入り謹慎します。が、新政府は有栖川野宮熾仁親王を大総督宮として東征軍を作り、東海道東山道北陸道の三方向から江戸へ進撃を開始しました。西郷は東征大総督府下参謀(参謀には公卿が就いたが飾りで、実質的な参謀)に任ぜられ東海道を進みます。一方、東山道は土佐の板垣退助が参謀として実質的に指揮しました。

 各東征軍の進路に当たる各藩は対応に苦慮します。藩主が江戸定府というケースが多く、それだけで佐幕派とみなされたからです。ある藩は藩主を見捨て東征軍に恭順、ある藩は藩内の佐幕派切腹を命じ藩論を勤王に統一して降伏するなど涙ぐましい努力をします。しかし徳川家のために殉じようという藩はほぼありませんでした。桑名藩(藩主が会津松平容保実弟)など、どう足掻いても新政府に許されないと諦めたごく一部の例外を除いて。

 旧幕府ですら一部の主戦派(新撰組や幕府歩兵隊など)を除けば厭戦気分が蔓延します。誰だって負けると分かっている戦いで死にたくはないのでしょう。強硬論を述べる新撰組組長近藤勇は、甲陽鎮撫隊の隊長に任ぜられ体よく江戸を追い払われます。近藤率いる甲陽鎮撫隊が板垣率いる新政府軍東山道先鋒とぶつかったのは1868年3月29日、甲州勝沼の戦いで近藤は大敗し、下総国流山に屯集しました。ところが早くも4月には新政府軍が板橋宿に達しており、近藤は新政府軍に捕らえられます。4月25日斬首、享年35歳。

 東海道方面では、3月6日新政府軍が駿府まで達しました。駿府城内の会議で江戸城総攻撃が決まります。江戸側では薩摩から十三代将軍家定に嫁いだ天璋院篤姫十四代家茂に嫁いだ皇女和宮寛永寺貫主・日光輪王寺門跡の輪王寺宮能久秦王らが、慶喜の助命嘆願、徳川家の存続を訴えてきました。ただ、西郷らは甲陽鎮撫隊による抵抗などを咎め各種嘆願書の不採用が決まります。

 江戸では勝海舟山岡鉄舟を使者として東征軍と接触を開始していました。山岡と会った西郷は、彼の人物を認め江戸側の代表勝海舟との会見を承知します。西郷は山岡の武人としての覚悟、幕臣としての忠義、江戸を戦火から救おうとする大義に感じ入ったとされます。女の涙では動かず、山岡の死を覚悟した立派な態度に動かされる当たり西郷の人となりが分かりますが、3月13日江戸田町薩摩藩邸で第一回の西郷・勝の会談が行われました。会談は二回にわたって行われ勝が示した

慶喜は水戸で謹慎
慶喜を助けた諸侯の命を奪わない
◇武器・軍艦はすべて新政府に差し出す
江戸城内の幕臣は城を出て謹慎
◇江戸の治安維持は勝が責任を持つ

という条件で合意されました。

 東征軍の幹部は甘すぎる処分に反対した者が多かったそうですが、西郷は勝の人物を信頼して江戸総攻撃中止を決めます。これが江戸無血開城です。

 しかし戊辰戦争はこれで終わりではありません。海軍副総裁榎本武揚は幕府艦隊を率いて逃亡、待遇に不満を抱いた幕臣が集まって上野彰義隊戦争、幕府歩兵隊も大鳥圭介に率いられ関東を転戦します。越後では、誤解から長岡藩執政河井継之助を新政府軍軍監、土佐の岩村精一郎が侮辱し、長岡戦争が起こります。新政府軍は長岡藩のガトリング砲に苦しめられ長州の山県有朋を総大将とする三万余りの大軍を集結させてようやく鎮圧しました。

 何より、会津藩松平容保を絶対に許さないという新政府の強硬な態度が奥羽諸藩の反発を生み、奥羽越列藩同盟との血みどろの戦いに突入したことは失敗だったと思います。これも勝利に驕った新政府側の外交の不手際と言ってよいでしょう。9月24日、会津藩の降伏で奥州における戦いは集結しますが、榎本はなおも蝦夷地に逃れ蝦夷共和国を建国、3千の幕臣と共に新政府に抵抗しました。榎本らの抵抗が潰えたのは明治に入った1869年(明治二年)6月27日の事です。

 数多くの犠牲を得て明治維新は成りました。慶喜は助命され徳川宗家は田安亀之助が継ぎます。会津藩はわずか3万石、極寒の地斗南(下北半島)に転封、仙台藩が34万石減の28万石にされた他は、佐幕派諸藩も寛大な処置で終わります。

 明治天皇も、江戸へ御動座され江戸は東京と改称、文字通り明治時代が始まりました。王政復古の大号令江戸幕府廃止のほかに摂政関白の制度も取りやめられます。天皇親政の下総裁・議定・参与からなる新官制が施行されました。1869年7月、版籍奉還、新たな太政官制が始まります。

 輔相に三条実美、議定は岩倉具視徳大寺実則鍋島直正の三名、参与に公卿の東久世通禧が入ったほかは、大久保利通木戸孝允後藤象二郎副島種臣板垣退助ら維新の功労者が就き実務を担当しました。ここに面白い話があります。維新後、薩摩の島津久光は「余はいつ将軍になれるのだ?」と真顔で聞いたそうです。もしかしたら大久保たちは久光にそういう甘い言葉を言っていた可能性はあります。結局久光を体よく祭り上げながら西郷、大久保らが主導で薩摩藩明治維新は行われたという事でしょう。

 西郷隆盛は、革命の成功で満足し中央政界での出世に興味がなかったのでしょう。藩主忠義の要請で鹿児島に帰り鹿児島藩大参事になりました。が、西郷を慕う者も多く、明治新政府は西郷を鹿児島に置いておくことに不安を感じます。何とかして東京に呼び寄せようと画策しました。


 次回、廃藩置県から明治6年の政変、西郷が再び野に下るまでを記しましょう。