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土佐藩の幕末維新Ⅵ  土佐藩の終焉(終章)

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 大政奉還が行われた1867年10月14日、実はこの日は薩摩藩長州藩に対し討幕の密勅が下った日でもありました。薩摩の大久保利通と公卿岩倉具視が中心となった陰謀ですが、彼らにとっては坂本龍馬の動きは邪魔でした。この事から龍馬暗殺に薩摩藩関与説があるのですが、私は薩摩藩を主導していた西郷の人となりから言って無かったと思います。

 それより幕府側で時流の読めない者が、幕府と徳川家の立場が悪くなるのを理解できず暴走したというのが真相だと考えています。実際、龍馬暗殺で公議路線を取る有力な勤王の志士は居なくなりました。同年12月9日、薩摩・尾張・越前・安芸遅れて土佐藩の代表が集まり京都の小御所で今後の日本の在り方を決める会議(小御所会議)が開かれます。

 席上、山内容堂は「この度の事は岩倉具視など一部公卿が薩摩藩と組んで起こした陰謀だ。この会議に徳川慶喜公が参加しないのは不当である」と激しく詰め寄りました。容堂のわがままで会議が崩壊しそうになる中、西郷隆盛は会議に参加していた大久保利通を呼び寄せ「貴方の刀は何のためにある?いざとなったら容堂を刺し殺し自分も自害して果てればよいではないか?」と覚悟を決めるよう促します。

 会議の席に戻った大久保の殺気を感じ取り、今まで勇ましく論じていた容堂は黙り込んでしまいました。結局、会議は薩摩藩と今回は会議に参加できなかった長州藩の思惑通り王政復古の大号令が出され、前将軍慶喜へは謹慎が申し渡されます。怒った容堂はさっさと帰国してしまいました。会議により朝敵だった長州藩は赦免されます。

 土佐に戻った容堂は藩士たちに薩長の軽挙妄動に絶対参加するなと厳命します。しかしすでに西郷や大久保と気脈を通じていた板垣退助は、独断で藩兵を組織し上洛しました。板垣は、今回の戦に参加しなければ戦後土佐藩が発言権を失うという危機感を持っていました。結局この判断は正解でした。容堂は山内家を大名にしてもらった恩義から徳川家に感傷的な気持ちになっていただけです。板垣の方が現実主義者だったのでしょう。

 大阪城に謹慎していた慶喜ですが、会津藩桑名藩など急進派に押され薩摩藩の横暴を朝廷に訴えるべく1868年1月2日、京都への進軍を許可します。この頃京都には薩長の兵5000しか終結していませんでした。幕府諸隊、会津藩桑名藩を中心とする幕府軍は2万。伏見の関所を通る通さないと小競り合いになり、これをきっかけとして鳥羽伏見の戦いが起こりました。いわゆる戊辰戦争の始まりです。

 戦闘は劣勢のはずの薩長軍がミニエー銃、スナイドル銃などの新兵器を駆使し勝利します。幕府軍は一部だけが積極抗戦派でそれ以外は嫌々参加していただけでしたから先鋒が崩れると総崩れになり大坂城に向けて敗走しました。悲惨なのは途中の淀藩が幕府軍の入城を拒否し城門を閉じたことです。当時の淀藩主は老中稲葉正邦。藩主が江戸にいるにもかかわらず藩士たちが勝手に主君を見捨て朝廷側に降ったのです。また、天王山に布陣していた津藩藤堂家は一夜にして朝廷に寝返り大砲を幕府側に振り向け砲撃を開始します。これが時流の力でした。

 大阪城に逃げ込んだ幕府軍は、慶喜を擁し一戦を交える覚悟でした。ところが慶喜は秘かにその夜大阪城を脱出し江戸に逃げ帰ります。置き去りにされた幕府軍こそいい迷惑でした。結局おのおのが落ちていき戊辰戦争は江戸へ向かう東海道東山道、そして北陸地方に飛び火します。

 板垣退助率いる土佐軍も、これに参加しました。板垣は東山道先鋒総督府参謀になります。土佐軍を主力とした東山道軍は甲斐国勝沼の戦いで新撰組の残党甲陽鎮撫隊を撃破し江戸に迫りました。この段階に至っては山内容堂も黙認せざるを得なくなります。もし板垣らを処罰でもしようものなら、今度は自分自身が朝敵になって殺されるからです。

 1868年3月、江戸無血開城。ただ戊辰戦争は終わらず奥羽越列藩同盟との血みどろの戦いに突入します。土佐軍は宇都宮の戦い、会津の戦いへと駒を進め活躍しました。板垣に軍才があったのは、やはり先祖である武田家重臣板垣信方の血でしょうか?容堂への忠誠心から公議思想を捨てなかった後藤象二郎との差がだんだんと広がっていきます。板垣は、中岡慎太郎の置き土産陸援隊を吸収し土佐藩における勤王討幕派の首領となりつつありました。

 戊辰戦争が終わり板垣、後藤はともに参議になりますが、板垣は征韓論で敗れ野に下り自由民権運動に身を投じます。後藤は参議を辞した後黒田内閣、山縣内閣、松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣で農商務大臣などを歴任、官界で才能を発揮しました。

 容堂のその後はどうなったでしょう?明治維新後内国事務総裁に就任しますが、かつての領民や家来たちと同格になるのが我慢できず明治2年辞職。橋場(東京都台東区)の別邸に引きこもり酒と女、作詩に溺れる晩年をおくります。容堂は武市瑞山を殺したために薩長に対抗できる人材を失い新政府の実権を奪えなかったと生涯悔いたそうです。ただそれは彼の勘違いで土佐に誰が居ようと明治新政府廃藩置県を断行し、容堂のような旧時代の遺物は消え去るしかなかったでしょう。武市にしても、そのようなくだらないことで容堂に期待されても迷惑だったはず。武市の真意は天皇を中心とする新国家樹立でしたから。


 明治4年廃藩置県土佐藩は正式に無くなります。代わりに高知県が設置されました。明治維新後薩摩の島津久光は「余はいつ将軍になれるのだ?」と真顔で家臣に尋ねたそうですが、いくら開明的だとは言え大名たちの認識は結局この程度だったのでしょう。容堂もまた幕末四賢侯の一人に数えられるにしてはお粗末だったと言えます。




 長宗我部家の一領具足の子孫、土佐郷士たちが多くの血を流して勝ち取った明治維新、結局その果実を食べたのは掛川衆である上士、後藤や板垣らでした。ただ板垣の起こした自由民権運動は、明治憲法の制定、国会開設へと繋がり、大正デモクラシーそして現在の民主主義へと繋がっていきます。四民平等を求めた龍馬たち土佐郷士の理想は現在になってようやく実現したのかもしれません。




                                   (完)