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下野における大鳥圭介の戦い

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 皆さん、大鳥圭介1833年~1911年)に関してどんな印象をお持ちでしょうか?私は司馬遼太郎坂の上の雲』のやくざな(それでいて有能な)駐清国特命全権公使兼朝鮮公使のイメージが強烈です(笑)

 ある程度幕末維新史をかじった人なら、大鳥が緒方洪庵適塾に学びその後軍学・工学に身を投じ洋式装備の幕府陸軍伝習隊の指揮官陸軍奉行として戊辰戦争を迎えた事を御存じだと思います。伝習隊はフランス式調練を施された幕府きっての精鋭部隊で、その装備もフランス皇帝ナポレオン3世から徳川慶喜に贈られた当時最新のボルトアクション式歩兵銃シャスポー銃だったと伝えられます。2個大隊基幹で定数1400名。1867年に創設されたばかりでした。

 ただ伝習隊に関しては異説もあり、博徒、やくざ、火消しなど無頼の徒を兵士に採用したためそれほどの精鋭ではなかったという説もあります。

 幕府が鳥羽伏見の戦いに伝習隊の投入を惜しみ少数しか参加させなかったことも敗因の一つだと言われます。余談ですが小銃の話をすると官軍(薩長中心)の主力銃はスナイドル銃で元込式は共通ですが単発でボルトアクション式のシャスポー銃とは発射速度が違いすぎました。シャスポー銃は、当時2000挺もあり(他に幕府がフランスに10000挺発注していたがどうなったか不明)まともなら幕府軍は負けようがなかったと思います。それを指揮する連中が門閥だけで選ばれ全く無能だったのが敗因なのでしょう。たたき上げの大鳥圭介のような現場指揮官を抜擢するだけの度量が幕府になかったのです。

 兵器の性能では幕府洋式装備軍が圧倒していましたが、実はスナイドル銃は構造が簡単で日本のような湿気の高いところでも故障が少なく、しかも簡単な改造キットで当時大量に輸入されていた先込式のエンフィールド銃をスナイドル銃に改造可能でした。一方、シャスポー銃は構造が複雑で日本のような高温多湿の土地での使用を想定しておらずしばしば故障したそうです。専用の弾丸も輸入以外では手に入れることできず消耗したらそれまでという状況でした。

 1868年(慶応四年)4月11日江戸開城の日、主戦論者だった大鳥は伝習隊を率いて江戸を脱出します。この時一部は江戸に残り官軍に編入されました。播磨国赤穂郡赤松村の医者の子である大鳥の気概を幕臣たちが少しでも持っていれば戊辰戦争の行方は違っていたかもしれません。

 大鳥は、土方歳三や松平太郎らと合流し下総、下野を転戦します。大鳥が直接率いた伝習隊は500名にすぎなかったと言われますが、下野小山において幕府の追討軍を3度にわたって撃破します。ようやく大鳥の戦上手の片鱗が見えたわけですが、幕府にとってはあまりにも遅すぎました。この時下野で活躍した旧幕軍は会津藩兵、立見鑑三郎(後の尚文)率いる桑名藩兵、土方ら新撰組残党、幕府が組織した諸隊でした。

 当時、幕末騒乱に影響され農民一揆も続発していましたから下野国は収拾のつかない状況に陥ります。下野の要衝宇都宮は徳川譜代戸田家7万7千石の領地でした。宇都宮藩も大政奉還、官軍による東征という衝撃から勤皇派と佐幕派の激しい対立の渦中にありました。結局宇都宮藩では勝ち組に乗るのが得策と勤皇派が勝ち官軍部隊を城に迎え入れることに決めます。親藩尾張紀州、そして水戸、さらには譜代筆頭の彦根藩井伊家までもが官軍になっている現状ではその選択は正解でした。しかし、幕府軍残党がひしめく下野での決断は、彼らの攻撃対象になるという不幸に見舞われます。

 1868年5月4日、大鳥圭介を軍総監、土方歳三を軍参謀とする旧幕府軍2200は、南下してきた会津藩兵と呼応し新政府軍に味方した宇都宮城を攻撃しました。タイミングの悪い事に、宇都宮城にいた新政府軍は日光から宇都宮にかけて蜂起した農民一揆鎮圧のために主力が出払っていて城内に宇都宮藩兵を含めてもわずか600しかいませんでした。

 第1次宇都宮城攻防戦は、当然のごとく旧幕府軍の勝利に終わり城は占領されます。新政府軍を指揮していた香川敬三は撤退し下野南部まで来ていた東山道総督府の主力軍と合流し反撃に移る計画でした。この戦いで城はもちろんのこと平安以来の歴史を誇る二荒山神社も灰燼に帰したと言われます。

 東山道総督府軍を実際に指揮する参謀は土佐の板垣退助でした。板垣は、手元にあった土佐藩兵を派遣し旧幕府軍を防がせる一方、各地から新政府軍を糾合させ最終的には2万も集めたそうです。板垣も戊辰戦争で将器を発揮させた一人です。

 数に限りがある旧幕府軍と違って、新政府軍はいくらでも援軍を送り込める点有利でした。新政府軍の精鋭である薩摩藩兵、長州藩兵も下野戦線に投入されます。下総古河に集結中の新政府軍を見て宇都宮の旧幕府軍は機先を制すべく壬生城攻略を目指し南下しました。最初は優勢に戦いを進める旧幕府軍でしたが、折からの豪雨で兵士の疲労が蓄積し河田佐久馬率いる鳥取藩兵の反撃に遭い攻撃が頓挫、宇都宮城に撤退します。

 1868年5月14日、大山弥助(後の厳。陸軍元帥)らが率いる東山道総督府救援隊軍(薩摩・長州・大垣藩)250が壬生城に入城、河田隊と合流し宇都宮城奪回をはかりました。ただ河田隊は壬生の戦いで総勢550名のうち100名以上の死傷者を出し疲弊していたので、新政府軍は河田隊を壬生城に残しました。

 この時新政府軍は大山らが率いる250と伊地知正治率いる別働隊もあったため総勢は不明ですがおそらく1000名は超えなかったはず。これで2000名以上が籠る宇都宮城を攻撃するのは自殺行為に思われますが、すくなくとも薩摩と長州の兵は戊辰戦争を戦い抜いていた精鋭で新式装備も有していたため自信があったのでしょう。

 旧幕府軍にとって不幸だったのは、大鳥圭介がこの時体調を崩し満足に指揮できなかった事です。5月15日第2次宇都宮城攻防戦は開始されました。新政府軍は大山弥助率いる洋式砲兵隊を持っていました。最終的にはこれが猛威をふるいます。大鳥も伝習隊を率い新政府軍の後方を脅かしますが新政府軍の猛烈な火力に圧倒され籠城を断念、宇都宮城を放棄しました。旧幕府軍八幡山、日光方面に撤退します。

 旧幕府軍は、徳川家の聖廟がある日光山で最後の決戦をするつもりでした。新政府軍は宇都宮城を拠点とし旧幕府軍と対峙します。新政府軍の先鋒は、日光の手前今市まで進出していました。日光山を巡って小競り合いが続く中、渦中の日光山では中禅寺の使僧が今市の新政府軍指揮官谷干城土佐藩)と交渉します。

 谷は、徳川家神廟を戦禍から守りたいという使僧の願いを聞き入れ大鳥圭介に使者を送り日光を出て戦争するか撤退するよう説得しました。大鳥も日光を戦禍に及ぼさないため同意して撤退します。再編成した旧幕府軍は今市で新政府軍に戦いを挑みますが、すでに戦機は去っていました。敗れた旧幕府軍は下野を去り会津に向かいます。

 日光山を戦禍から救ったとして板垣退助(実際は谷干城だが)の銅像が神橋のたもとに建てられているそうです。

 その後大鳥率いる伝習隊は、会津母成峠の戦いで壊滅的打撃を受けます。大鳥は会津藩が陥落すると蝦夷地に向かい箱館戦争を戦いました。明治2年(1869年)五稜郭で降伏、東京に護送され収監されます。明治5年特赦により出所、北海道開拓使などを歴任し外交官となり日清戦争で活躍した事は有名です。