なかでも徳川家に忠誠を尽くさなければならない親藩、譜代も時代の流れに翻弄されました。
御三家筆頭尾張藩徳川家、八代将軍吉宗を出した紀州藩徳川家は早くから幕府を見捨て明治新政府に付きます。親藩でも福井藩松平家などはすでに鳥羽伏見以前から薩長と気脈を通じ中立を装いながら事態の推移を見守っていました。
酷いのなると、現職の老中として藩主が江戸にいるにもかかわらず主君を見捨ててさっさと新政府軍に降伏した淀藩のような例もあります。
もちろん彼らにも言い分はあると思います。個人の考えはともかく藩士とその家族の生活も守らなければならないでしょう。時代の流れに逆らわずその流れに乗るという生き方も必ずしも悪いとは言い切れません。会津や桑名、そして奥羽越列藩同盟の諸藩は悲惨な運命を辿りましたから。正義とか忠義などという青臭い考えでは激動の時代は生きられません。
請西藩にも激動の時代のうねりは近づいていました。撤兵隊の伊庭八郎、遊撃隊の人見勝太郎ら徹底抗戦派の旧幕府軍が助力を要請しにやってきます。
これも関東ではよくある光景で、たいていの藩は金や食料を与え体よく追っ払いました。しかし忠崇だけは違った行動をします。
なんと徹底抗戦派の藩士70名を引き連れ彼らに合流したのです。おそらく藩主自らが脱藩したのは前代未聞でしょう。思い切った行動をしたものだと思います。
伊庭らと行動を共にした忠崇は、幕府海軍の助力を得て房総半島から伊豆に渡り箱根、小田原を転戦します。このとき小田原藩ら譜代の諸藩に迫り徳川家に対する反逆を責めたといいますが、彼らにとっては迷惑千万だったでしょう(苦笑)。
おそらく脱藩は、彼の信念と藩の存続という相反する事柄に対するぎりぎりの選択だったのでしょう。しかし新政府にそのような理屈が通用するはずもありません。新政府の怒りを買った請西藩は唯一改易されました。
忠崇自身も幽閉され、明治5年(1872年)ようやく赦免されました。家禄は35石に減らされその後の生活は困窮したと伝えられます。開拓農民、下級官吏、商家の番頭などの職を転々としかつての大名とは思えない辛酸を舐めました。