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薩摩藩の幕末維新Ⅺ 城山に消ゆ(終章)

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 西郷軍が人吉盆地から宮崎県に入った時3千人程度に減っていました。新政府軍はこれを鎮圧するため第1旅団、第2旅団、第3旅団を主力とする7万人にも及ぶ大部隊を集めます。すでに三月七日西郷軍の根拠地鹿児島に官軍千数百名が上陸占領していました。官軍には勅使柳原前光が同行しており、旧藩主の国父島津久光と面会します。勅使は久光に西郷軍への協力を止めるよう求めますが、久光は「西郷に加担することはないが、すでに君臣の間柄ではなく自分としては何もできない」と答えました。

 勅使の副使として黒田清隆がいました。皮肉なことに幕末期家臣だった者が上座に座り久光に命令を下す立場になります。勅使が会見を終え帰る時、平伏していた久光が黒田に対し「了介(清隆の事)も随分偉くなったものだな。茶坊主めが」と憎しみを込めて言葉を発します。息子で旧藩主(現県令)の忠義は必死に父を押しとどめますが、顔面蒼白になった黒田は「おいは昔とは違いもんど」と弱々しく反論し逃げるように去っていきました。

 三月二十一日をもって前県令大山綱良逮捕。東京に護送され長崎に移され斬首されます。享年53歳。根拠地を奪われ補給の目途が立たなくなった西郷軍は常識的には抵抗できないはずでした。ところが驚異的な粘りを見せ都城、小林盆地を中心に頑強に抵抗します。七月二十四日新政府軍別働第3旅団がようやく都城を奪回、西郷軍は宮崎県北部に去りました。

 八月に入って宮崎、高鍋を新政府軍に占領された薩軍は宮崎県北部の要衝延岡に追い詰められます。八月十二日新政府軍総攻撃開始。このとき西郷は自ら兵を率い突撃しようとしますが、周囲から押しとどめられました。八月十五日和田越の決戦に敗れた薩軍は長井村に包囲されます。ここで西郷は解軍の令を出します。これまで西郷に従ってきた多くの兵が官軍に降伏しますが、西郷と生死を共にしようという精鋭千人は最後まで残りました。

 西郷軍は軍議を開き、ここで玉砕するよりは官軍の包囲を脱し故郷鹿児島に戻ろうと決します。八月十七日西郷軍は可愛岳(えのたけ)強行突破を図りました。不意を衝かれた官軍は退却、西郷軍は弾薬3万発、砲1門の戦利品を獲ます。宮崎と熊本の県境にそびえる九州山地に向かった西郷軍を新政府軍は見失います。九月一日、西郷軍は突如鹿児島に姿を現しました。パニックに陥る官軍留守部隊を蹴散らし西郷軍は最後の決戦の地城山に立て籠ります。城山は江戸期薩摩藩の政庁があった鶴丸城背後の山で詰めの城です。西郷に付き従う兵わずか3百余り。もとより死を覚悟した布陣でした。新政府軍は、城山を何重にも包囲します。

 新政府軍の総攻撃が明日に迫る中、その夜西郷軍は最後の宴を開きました。旧中津藩士増田宗太郎は西郷軍にここまで従ってきた一人でしたが、西郷と親しく接するうちに西郷の人格に魅了されます。「先生に一日接すれば一日愛あり。ゆえに私は離れることができないのだ」と故郷の友に書き送っていました。その増田も翌日壮烈な戦死を遂げます。

 九月二十四日午前四時、総攻撃がついに開始されました。西郷は着流しに袴姿、別府晋介を護衛に堂々と城山を下ってきたそうです。西郷は銃弾を足に受けます。別府を振り返ると「晋どん、ここら辺でよかじゃろ」と声を掛けました。新政府軍の銃弾は西郷の胸を貫きます。瀕死の西郷は「介錯を…」と別府に声を掛けました。別府晋介は泣きながら西郷の首を刎ねます。49歳の波乱の生涯です。別府もその場で切腹しました。西郷の死を知った村田新八は自害、桐野は新政府軍の中に突撃し壮烈な斬り死にを遂げます。日本最後の内戦西南戦争はここに終わりました。

 薩軍戦死者6765名、官軍戦死者6403名、西郷はこれらの犠牲者と共に明治新政府が抱える様々な矛盾を背負って死んでいったとも言えます。西南戦争の結果、明治新政府はようやく日本全国の支配を確立しました。富国強兵に邁進し日清日露戦争の勝利でようやく日本は植民地化の危険から脱し、列強の一角を占める国になります。


 東京で西郷の死を聞いた大久保は号泣し「おはんの死と共に、新しか日本が生まれ変わる。強き日本が…」と何度もつぶやいたと伝えられます。大久保とて決して西郷が憎かったわけではないのです。国家に対する考え方の違いが生んだ悲劇でした。大久保は参議・内務卿として明治新政府を主導し中央集権化を進めます。明治十一年五月十四日、大久保は宮中参内のため馬車に乗って屋敷を出ました。馬車が紀尾井坂に差し掛かると突然暴徒に行く手を遮られます。大久保の中央集権化に反対する石川県の不平士族たちでした。「何者じゃ、訳を言え」と大久保は声を掛けますが、「問答無用」と斬りつけられ絶命します。享年47歳。冷酷非情な大久保は反対派から激しく憎まれますが、彼自身は清廉潔白で無私の政治家でした。

 大久保の遺産は140円。ところが8000円もの借金があったと伝えられます。所有財産もすべて抵当に入っていましたが、債権者はあえて返済を遺族に求めなかったそうです。大久保の負債は、新政府の計らいで彼が生前鹿児島県庁に学校費として寄付した8000円を回収し返済に充てられました。


 西郷、大久保の死をもって薩摩藩の幕末維新は終わります。明治国家は幕末維新期に生まれた矛盾を克服し貧しくとも強き国を建国しました。幕末維新で散って行った数多くの命は日清日露の戦いの勝利で報われたと思います。しかし大東亜戦争で敗れ平和ボケしている現代の日本人は彼らやその後の戦争で散った英霊に顔向けできるでしょうか?国家について、日本人について色々なことを考えさせてくれます。



                                (完)