前編、中編で予想外に紙面を費やしたのではしょります(汗)。
大村は、戦闘が勃発しても緒戦は負ける可能性が高いと想定します。明治天皇を擁して山陽道を下った薩長軍が広島あたりで幕府軍と決戦すると想定し、そのための準備を始めていました。というのは古来京都が守りにくい土地だったからです。
盆地であり、その入り口を封鎖すれば中にいる軍は立ち枯れるのです。足利尊氏もそのために九州に落ちて行ったほどでした。
伏見街道を封鎖する薩長軍と「通せ」「通さない」というつまらない小競り合いから戦は始まりました。1868年1月3日の事です。近代装備の薩長軍と旧式装備の幕府軍と言う前に、戦を覚悟している者とあわよくば戦をせずに朝廷を包囲し武力で威圧しようとした者との覚悟の違いが大きかったと思います。
幕府軍の拠点伏見奉行所を砲撃できる高台に布陣していた彦根藩は、薩長の使者を受けて秘かに撤退しました。当然直後に薩長軍が入り、伏見奉行所を砲撃します。さらに最悪なのは天王山に砲台を築いていた津藩でした。一夜にして寝返った津藩は大砲を南に向けかつての味方を砲撃し始めたのです。
徳川幕府崩壊の始まりです。戦況不利となる中一時撤退した幕府軍は、味方である淀城に籠って体勢を立て直そうとします。しかし淀城の城門は開きませんでした。淀藩主稲葉正邦は現職の老中でした。淀藩は藩主が江戸にいて不在にもかかわらず勝手に官軍に寝返ったのです。淀城からも追い出された幕府軍は大坂城に撤退するしかありませんでした。
それでも城に籠って徹底抗戦するというものが多く、また長期間籠城したら戦況はどう転ぶかも分かりません。しかし最高司令官である慶喜は、錦の御旗が敵軍に翻り自分が賊軍になった事に衝撃を受けていました。
慶喜は近臣だけを引き連れ、多くの部下を見捨てて江戸城に海路逃げ帰りました。時勢なのでしょう。徳川宗家に殉ずるべき御三家筆頭尾張藩や親藩の越前藩などは初めから中立でした。しかも幕府と薩長の間を取り持つなどと称していましたから戦う気など初めからなく錦旗が薩長に翻るや官軍としての立場を鮮明にします。
最初から最後まで幕府と徳川宗家のために戦ったのは会津藩と桑名藩のみ。関ヶ原で豊臣恩顧の大名が大挙して家康に寝返ったように、今度は徳川家を親藩・譜代を含む大半の大名が見限ったのです。戊辰の戦いは忠義とは何か?という問題を深く考えさせられます。
以後、新政府は各地に討伐軍を派遣し江戸は有名な勝・西郷の会談によって戦火から免れます。大村は、桂の意向もあり後方で兵站を担当しました。あくまでも薩摩を立て長州は従であるという立場からです。そのほうが呉越同舟であった連合軍をまとめやすかったのです。
しかし、江戸無血開城後、不平旗本が彰義隊を結成し上野寛永寺に籠るとこれを討伐する必要が生じました。大村はここで初めて江戸に赴き新政府軍を指揮するようになります。薩摩は西郷が勝との会談で江戸の治安を勝に一任していたため動けなかったからです。あくまでプロに徹する大村は冷静に薩摩の将に指示を下します。西郷はさすがに何も言いませんでしたが、大西郷に対しても上から命令を下す新参の大村に薩摩の将は怒りました。とくに海江田信義などは露骨に敵意をみせ「大村を斬る」とまで息巻きます。それをなだめたのは西郷でした。
「ここは大村さんに任せもっそ」という西郷の鶴の一声で丸く収まります。が海江田らの恨みは深く残りました。
こういう内面のいざこざはあったものの彰義隊討伐自体は問題も無く成功しました。以後大村は事実上の新政府軍総司令官として各地の戦線を指揮します。
あるとき薩摩の隊長が「弾薬が無くなりそうだから即刻送って欲しい」と大村に使者を送ります。それに対して大村は「君には○日分の弾薬を渡してある。一回の戦闘でこれくらい消費するからまだ△日分あるはずだ。嘘を言ってはいけません。次回の補給は○月□日に送るからそれまで頑張るように」と返事を送りました。
確かに大村の言う通りですが、これでは円滑な人間関係は築けません。西郷に対してさえ命令口調で話す大村でしたから、新政府軍特に薩摩の連中には恨まれました。
大村としては、総大将として当然の事をしたまでだと反論するでしょう。そのために引き受けたのだから、と。
長州藩の者は付き合いも長いので大村の性格を知り苦笑するだけでしたが、初めて接する薩摩藩では尊敬する西郷までが侮辱されたと誤解する者も多かったと思います。大村は軍事にかけては天才的でしたがこういった人情の機微には疎かったようです。
北越、会津、箱舘と大村の指揮で戊辰戦争は新政府軍の勝利に終わりました。戦後、大村は兵部大輔を拝命し新政府軍の軍制を担当します。薩摩・長州・土佐・の藩兵を中心とした御親兵を政府軍としたい大久保らに対し、大村は国民皆兵による徴兵制を強く主張しました。
実は大村は、次に反乱をおこすのが西郷を中心とする薩摩勢力であることを見抜いていたのです。大村は愛弟子であった山田顕義に語っています。
「次は足利尊氏のようなものが九州でたちあがる」
まだ西郷が下野する前です。恐るべき慧眼と言わざるを得ません。
しかしこれらの改革は、それまでの支配階級である武士の特権を奪う事でもありました。全国の不平士族は大村の事を激しく恨みます。
そんな中、大村は明治2年大坂や京都に建設中の兵学寮や造兵廠を視察するため関西方面に出張する事を計画します。大村暗殺の噂を聞き心配する木戸孝允は中止するか延期するよう大村に強く意見したそうですが、大村はこれを聞き入れませんでした。
9月4日、大村は京都三条木屋町の旅館で8名の刺客に襲われます。重症を負いながらも命だけは助かり大坂の病院に収容されました。しかし名医ボードウィンらの治療もむなしく11月1日傷口から菌が入り敗血症で死去しました。享年46歳。
大村暗殺の実行犯は間もなく捕まります。海江田は捜査や裁判を妨害したとして謹慎処分になりました。暗殺事件に関与した決定的証拠が見つからなかったのでそれ以上罪に問われる事はありませんでしたが、木戸や長州の者たちは海江田に対する疑いを生涯捨てませんでした。華族制度施行の時海江田が伯爵になれず子爵にされた事も長州閥の反対があったからだと伝えられています。
入院中、横浜で開業していた楠本イネが病床に訪ねてきた事は大村にとってせめてもの慰めだったかもしれません。大村は妻帯していましたから互いにプラトニックラブだったと思いますが(大村の性格上も肉体関係はあり得ない)、互いに尊敬し合える仲だったのではないでしょうか?
案外、「私はそのために準備していたんです」と淡々と語ったかもしれませんね。