四境戦争における長州軍の兵力配分は(あくまで想像ですが)安芸口2000、想定主戦場の小倉口に奇兵隊を主力とする3000、石州口に1000弱。戦力総予備として1000ほどでしょうか。
その中で一番の精鋭は、老中小笠原長行が率いる九州諸藩、なかでも主力の小倉藩(同じ小笠原氏だが長行は唐津藩主)に対峙する小倉口でしょう。小笠原は九州諸藩の大軍を率いて馬関(下関)海峡を挟んで長州軍と睨み合っていました。
しかし幕府がその戦法を選択しなかったのは、完全に指揮官である老中小笠原長行の戦意不足だったと思います。乾坤一擲、この一戦に命をかける覚悟が全くありませんでした。
せっかく優勢な兵力を有しながら幕府軍は敵前上陸を許したのです。決死の覚悟の長州軍は戦いの主導権を握るべく先制攻撃を仕掛けます。一方幕府軍では九州諸藩の戦意は低いものでした。当事者である小倉藩兵はさすがに必死に抵抗しましたが、他藩兵は傍観するだけでした。一部熊本藩兵だけが激しく戦ったそうです。
同郷人としては、融通のきかない肥後人の頑迷固陋ぶりに苦笑するばかりですが、「あくまで幕府と長州の私戦であり、このような戦で無駄に消耗する事は無い」と判断して戦わなかった他藩兵の選択が正解でした。
その証拠に薩摩や佐賀は応援の兵力さえ送ってこなかったではありませんか!安芸口の広島藩でさえ兵力を出してない厳しい現実を見て悟るべきでした。もしかしたら傍観した諸藩には薩長同盟の噂くらいは入っていたのかもしれません。出兵しない雄藩に対し何の処分もできない姿に幕権の凋落ぶりを見れば、分かるものには分かるのです。肥後もっこすは時勢を見る目が無かったのかもしれません(閑話休題)。
7月下旬、赤坂、鳥越の戦いでは熊本藩兵が長州軍を一時圧倒するほどでしたが、当事者であるはずの小笠原の消極的態度は変わりませんでした。
しかも小笠原自身、将軍家茂の逝去を理由に勝手に戦場を抜け出し江戸に逃げ帰る始末。この戦の愚かしさはどうでしょう?肝心の主将である老中が敵前逃亡したのですから。小倉藩は老中逃亡後も家老を中心に粘り強く抵抗します。が、それも時間の問題でした。小倉軍は小倉城を焼いて退去します。長州軍は企救郡を保証占領し、日田県(小倉領を含む)に戻るのは明治2年(1869年)のことでした。
次に石見戦線を見てみましょう。初め大村はこの方面では戦略持久策を取るつもりでした。が一橋慶喜の実弟が藩主を務める浜田藩に親藩である紀州藩、そして外様の雄藩鳥取藩が侵攻の気配を見せたため、一度痛撃を与えて侵攻の意図を挫く必要がありました。
精鋭部隊は小倉口と安芸口に集めていたため、この方面は二線級の部隊しか用意できませんでした。大村は自らが指揮することによって作戦成功を目指します。
石見侵攻部隊は750人ほど。武士階級出身ではない大村は、馬に乗れないため部隊の後方から数名の伝令兵とともに指揮杖を振りながら徒歩でついて行ったそうです。何となくユーモラスな光景が浮かびますね。
石州口最初の敵は津和野藩(亀井氏四万三千石)でした。しかし長州に同情し、また抵抗しても無駄である津和野藩は長州軍の通過を黙認する態度に出ます。
それでも幕府軍は侵攻してきた長州軍と各地で激しく戦います。大村は梯子を用意させ高いところに登って指揮したそうです。こういう戦略家型の人物は得てして戦術指揮は苦手という例も多いのですが、大村だけは違いました。
戦略もでき戦術もできるのが大村益次郎でした。はじめ百姓出身という事でかならずしも信服していなかった将兵も大村の作戦がずばりずばりと当たるので、次第に畏敬の念を持って接するようになります。そうなると戦闘力は何倍にもはね上がりました。
大村の指揮で、長州軍は浜田城に迫ります。無駄な抵抗をする事は無いと大村は開城を勧めますがさすがにこれは武士の意地が許さなかったのでしょう。藩主一同隣国の松江藩に脱出し、城に火をかけました。
四境戦争は日本全土に影響を及ぼしました。戦に備えて各藩が米を買い占めたために米価をはじめ物価が高騰し各地で一揆や打ちこわしが勃発します。徳川家茂に代わって総指揮を引き継いだ一橋慶喜は「大討ち入り」などと威勢の良い事を唱えますが結局口だけでした。
どの戦線においても劣勢に立たされた幕府軍は、参加する諸藩の戦意をますます低くしました。外様だけでなく譜代・親藩の間でさえ幕府や徳川宗家に殉じる事が馬鹿馬鹿しく思えるようになっていきました。攻勢をとる藩は皆無で、なんとか理由を付けて上手く撤退しようとそればかり考えるようになっていました。
こうなると戦争を続けることはできません。9月2日、幕府はついに折れ長州と停戦交渉に入ります。どんな理由を付けても負けは負けでした。この結果、日本中で長州藩だけが戦国時代の群雄割拠そのものの独立国となったのです。
幕府の凋落は誰の目にも明らかになりました。徳川幕府滅亡は事実上この四境戦争の敗北から始まったといっても過言ではありません。
後編では、戊辰戦争における大村、そしてその死を描こうと思います。