鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

両畠山家の抗争

 一般受けしないと思うのでスルーしてくださいな。

 たまたまYOUTUBENHK英雄たちの選択『応仁の乱』をやっていました。数年前の放送らしいんですが、その中で応仁の乱の原因の一つとなった三管領家の一つ畠山家(他は細川、斯波)の家督争いの一方の雄、畠山義就(よしなり/よしひろ)が乱終結後独自路線を取り河内国で自立して最初の戦国大名になったと紹介していたんですよ。

 一応畠山家に関しては過去記事『畠山金吾家』であらましを紹介しているので、ここで改めて書くことも無いんですが、せっかく系図を作成したので記念に記事を書くことにしました(笑)。

 上の系図で義就、政長は同世代ですが、政長の子尚順(ひさのぶ/ひさより)は政長36歳の時の子なので義就の孫義英(よしひで)とほぼ同世代です。

 ちなみに義就が1437年生まれ1491年没、義豊が1469年生まれ1499年没、義英1488年生まれ1522年没、義堯(よしたか)生年不明1532年没、義堯の弟在氏(ありうじ)生没年不明です。ところで総州家というのは義就の官位上総介から来ています。

 一方尾州家は政長の官位尾張守から来ており、政長が1442年生まれ1493年没、尚順1476年生まれ1522年没、稙長1509年生まれ1545年没、政国生没年不明、高政1527年生まれ1576年没で戦国時代末期頃の人です。

 最初幕府管領も務めた義就の父持国(出家して徳本入道)に実子が無く、甥の弥三郎政久を養子として家督を継がせるはずでした。ところが徳本入道の側室土用が義就を生んだため弥三郎を廃嫡して義就に家督を継がせようとします。土用は高級娼婦だったといわれ徳本入道以外にも小笠原家や飛騨の豪族江間氏との間にも子をなしていたため、畠山家臣団は難色を示しました。義就が徳本入道の本当の子か疑わしかったからです。

 納得のいかない家臣団は、早世した弥三郎に代わり弟の政長を擁立します。これが畠山家の分裂に発展し総州家、尾州家の対立となったのです。

 最初優勢だったのは総州家の義就で、応仁の乱河内国をほぼ制圧し山城南部にも手を伸ばし始めました。当初管領細川勝元と組んでいた政長ですが、勝元が死ぬと子の政元に見捨てられ孤立して摂津国正覚寺城で自害します。しかし正覚寺城を脱出した嫡子尚順は畠山家の分国の一つ紀伊国に逃れ1497年挙兵しました。

 河内に進軍した尚順軍は一応河内国守護職と畠山家の家督を手に入れていた義就の子義豊を敗死させ畠山氏の本拠河内国高屋城を奪回します。その後両家は河内国の支配権をめぐって攻防を繰り返しますが、紀伊国の分国を持っている尾州家の方が優位で次第に総州家を圧倒するようになりました。

 尾州家高政の時代、ほぼ河内国の支配権を確立しますが三好と対立し長慶の弟三好義賢(実休)を敗死させるものの次第に圧迫され河内国を追い出されます。紀伊国に撤退した高政は、何度か河内回復の兵を挙げますが成功しませんでした。その後織田信長が上洛するとこれに従います。しかし信長にも見放され1576年紀伊国岩室城で寂しく亡くなったそうです。

 その後の畠山尾州家ですが、名家という事で徳川将軍家に取り立てられ、高政の孫貞信は将軍家光の代に300石、その子基玄(もとはる)の代には奥高家に任ぜられ5000石を拝領しました。

 総州家のその後ですが、在氏は1555年以降消息不明、その子尚誠(ひさまさ)は大和国宇智郡に勢力を持っていたことは確認されるものの、次第に没落していったと見られています。一説では松永久秀の仲介で尾州家高政の家臣になったとも言われますが、真相は分かりません。

 その尾州家も最後は紀伊国有田郡とその周辺を支配するだけの一地方勢力に落ちぶれていたので、かつての栄華を誇った管領畠山金吾家の末裔としては哀れを誘いますね。家康の名家好きのおかげで生き残れたのはむしろ幸運と言うべきなのかもしれません。