この年は意味があって、薩摩の島津義久が豊後の大友宗麟を破った耳川の合戦の年でもあります。それまで肥後国は大友宗麟の制圧下にありました。大友家は耳川の合戦敗北前までは豊前・豊後・肥前・肥後・筑前・筑後6ヶ国の守護を兼ねる大勢力でした。
それが薩摩・大隅・日向を領する島津氏に敗北し坂道を転げ落ちるように衰退の道を辿りはじめます。肥後でも権力の空白が生じたのです。
隆信はまず天正六年三月野原庄(現熊本県荒尾市と長洲町の大部分)を領する小代親忠に書状を送り帰順を勧めます。しかし二百年近く大友氏と誼があり強力な大友党だった親忠はこれを拒否。肥後に侵攻してきた竜造寺軍と合戦になりました。
この時の竜造寺軍の兵力は不明ですが、おそらく数万。一方小代軍は二千でした。地理に明るい小代軍は山間部で奇襲を試みますが諜者の知らせでこれを察知した竜造寺軍に待ち伏せされ大敗してしまいます。
梅尾城(小岱山中腹、小代氏の平時の城)や浄業寺、野原八幡宮も戦火に焼かれたそうですからかなり領内深く攻め込まれたようです。
衆寡敵せず小代親忠は降伏、自分が人質になることで許され息子の親泰が後を継ぎます。その後も竜造寺軍は肥後に留まり領土拡大を図りました。
隈本(現熊本)城主城親冬ら有力国人は肥後西北部で五万石を領する小代氏の降伏を受けて竜造寺隆信に抵抗する愚を悟り起請文と人質を出して降ります。五月隆信は肥後隈府(現菊池市)城主赤星氏を攻め降伏させました。
この前に山鹿・鹿本の城主隈部氏も降伏していましたから旧肥後守護家菊池氏の三家老の家柄で有力国人でもあった城・隈部・赤星氏を軍門に下し肥後北部をほぼ制圧したことになります。
これが第一回の肥後侵入。第二回は天正八年(1580年)でした。これは耳川の合戦後急速に拡大する島津氏の勢力が肥後に伸びてきたからです。
天正八年四月、筑後柳川を発して瀬高を経由、荒尾大島より肥後に侵入します。大津山城(南関町)を経て山鹿に布陣しました。一方、水軍は肥前神代(島原半島北部)を発し兵船二百余で有明海を横断海路から肥後を窺います。(筑後口から侵攻した陸軍を率いたのが鍋島直茂、水軍を率いていたのが隆信本人の可能性あり。
1578年あるいは81年に家督を嫡男政家に譲り鹿島に隠居、ただし軍事・政治の実権は握っていたので)
おそらく第一回の肥後侵攻の際補給基地として内野城を整備していたはずなので、水軍はまずここに入ったと思います。小代氏降伏でこのあたりの支配権を奪っていたのかもしれません。城番を置いていた可能性もありますね。
島津氏の勢力はすでに肥後南部に伸び、北部にも浸透しつつありました。隆信の猜疑心から人質である幼い息子・娘を惨殺されていた赤星統家にも島津氏の調略の手は伸びていました。
隆信としては、この際強大な力を示すことで肥後国人衆の引き締めを図ったのでしょう。伝えられるところでは総兵力五万という大軍でした。
赤星統家は衆寡敵せず、戦わずして隈府城を去り島津氏のもとへ逃れます。竜造寺の大軍に恐れをなし甲斐・合志・阿蘇・相良ら肥後中南部の諸将も降伏したといいますからこの時肥後は竜造寺隆信の手で一時統一されました。
私は1584年説はちょっと考えにくいと思っています。といいますのもこの年は沖田畷で竜造寺隆信が島津氏に敗北し討ち取られた年なのです。当主討死で急速に領国が瓦解しつつあるなか肥後に侵攻する余裕があったのか甚だ疑問です。
私は両軍の睨み合いは1581年ではなかったかと推定しています。島津側から見た場合、せっかく版図に加えた肥後南部が竜造寺隆信に取られているのを指をくわえて見ているはずがないと思うのです。
しかも自分を頼って逃げてきた赤星統家を見殺しにすれば、島津氏に従っている豪族たちにも動揺が走りかねません。
1581年から沖田畷で敗北する1584年までが肥前の熊、五州二島の太守・竜造寺隆信の絶頂期だったのでしょう。