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沖田畷の合戦     - 竜造寺一族の興亡・完結編 -

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 戦国時代末期の九州、日向・耳川の合戦で脱落した大友宗麟に代わって台頭したのは、宗麟に勝った薩摩の島津義久と、肥前の竜造寺隆信でした。

 九州を賭けた両者の対決は時間の問題でした。最初は肥後に侵入した両軍が菊池川を挟んで睨み合うという事態が発生し、この時は両者兵を引き大事には至りませんでした。


 北九州五ヶ国(肥前・肥後・筑前筑後豊前)と二島(壱岐対馬)に勢力を拡大しこの時絶頂期にあった竜造寺隆信でしたが、その内情は厳しいものでした。生来の性格である残忍さに配下の諸将の人心は既に離れていたのです。


 前回書いた蒲池一族の謀殺の他にも、ちょっとした理由で人質を殺すという事件が続発していました。隆信のお膝元肥前でも島原半島の領主有馬晴信が謀反します。晴信の妹を隆信の嫡男政家の正室にするという姻戚関係まで結んでいた仲でしたが、大恩ある蒲池一族を滅ぼした隆信の残忍さに嫌気がさしての反逆でした。


 晴信は、隆信と対立する薩摩の島津氏と結びます。島津義久は弟家久に援軍を授け有馬家を助けました。隆信は有馬の小癪な動きに怒りを爆発させ、1584年実に五万七千もの大軍を動員し有馬討伐の軍を発しました。


 一方島津、有馬連合軍は合わせても一万に満たない小勢でした。連合軍の総大将に就任した島津家久は、将兵に決死の覚悟をさせるため乗ってきた船の纜を切ります。そして寡兵をもって大軍を相手にするため島原(森岳)城の北方2キロの湿地帯に狭い街道が走る沖田畷を戦場に選びました。


 竜造寺軍は相手を小勢と侮り遮二無二中央突破を図る作戦に出ます。一応軍を三手に分け山手と浜手にも兵力を分けますが、隆信は中央に布陣しました。


 島津軍は鉄砲隊を道の両側に伏せさせ万全の態勢で待ち構えていたのですが、信じられないことに竜造寺軍は斥候さえ出しておらず、目の前に来るまでこれに気付きませんでした。


 大軍の驕りだったんでしょう。初め竜造寺軍で一番有能な鍋島直茂が中央を担当するはずでしたが、隆信は彼をあえて山手に回し、自分が中央を選んだのです。歴史にIFは禁物ですが、直茂だったらこんな無様な敗戦にはならなかったと思います。

 そういう意味でも隆信の命運は尽きていたのでしょう。沖田畷の狭い道を進んでいた竜造寺軍は、前方に木戸と柵が設けられていることに気付きます。先陣はこれを見て前進を躊躇しますが、後から後から後続が続くため、押し出される形で前に出ました。


 そこを待ち構えていた島津の鉄砲隊が一斉に火を噴きます。大混乱に陥った竜造寺軍はあわてて後退しようとしますが、後ろの道はふさがり、両側は深田になっているため身動き取れない状態で次々と鉄砲の餌食になりました。

 まさに家久の作戦勝ちです。隆信はこの当時太っていたため馬に乗れず、輿に乗って兵士たちに担がせていました。このため逃げることができず、深田に落ちたところを追撃してきた島津勢によってあっけなく討ち取られてしまいます。


 これが梟雄と呼ばれた男の最期でした。時に隆信五十六歳。



 余談ですが、島津勢のなかで最も奮戦したのは赤星統家勢でした。実は統家は元竜造寺方でしたが、ささいなことで疑われ幼い息子と娘の人質を殺され島津に走っていたのです。復讐に燃える赤星勢は獅子奮迅の働きを示したと伝えられます。


 隆信は恐怖政治によって部下を統御しましたが、かえってそれによって自らの死を招くことになりました。



 沖田畷の合戦は、その後の九州の覇権を決定づけた戦いでした。以後島津が独走態勢に入り九州統一する寸前までいきます。



 当主が討たれ、四天王をはじめ有力な武将を多く失って敗北した竜造寺家は、配下の諸将の離反があい続き佐賀周辺を治めるだけの地方勢力に落ちぶれます。それでも滅びなかったのは鍋島直茂の働きでした。


 彼がいなければ、この時竜造寺家は滅びていたかもしれません。しかし以後の歴史は直茂を中心に回ります。竜造寺一族の興亡としては、この戦いによって終焉を迎えたのです。