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戦国九州一の美女 『秀の前』の悲劇  - 竜造寺一族の興亡④ -

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 佐賀市から久留米に向かう道路の一つ、県道20号線沿いの佐賀と久留米の中間、平野のど真ん中に蓮池公園はあります。かっては肥前国の国人小田氏の城がありました。

 この小田氏は常陸の豪族小田氏の一族で南北朝時代前後に肥前に下ってきた一族だと言われています。


 1562年、時の蓮池城主、小田鎮光(しげみつ)に縁談が持ち上がります。相手は肥前佐賀城主竜造寺家。嫁いできた新妻は一七歳。噂通りの輝くばかりの美しさに鎮光は言葉を失います。

 彼女の名は、お安といいました。のちに秀の前と呼ばれることになります。実は竜造寺家の当主隆信の実の娘ではありません。彼女は本家村中竜造寺の当主胤栄(たねみつ)の一人娘でした。しかし、胤栄が二十四歳の若さで病死すると、一門は竜造寺の家を守るために残された未亡人を分家の水ヶ江竜造寺隆信と結婚させます。

 こうして隆信は宗家を継ぐこととなりました。お安は隆信の養女となり育てられます。時に彼女は三歳でした。


 お安は、成長していくにつれて美しさが際立ってきます。三国一の美女として近隣に噂が鳴り響きました。隆信は彼女を政略結婚の道具にしようとします。佐賀と筑後を結ぶ街道に位置する要衝、蓮池城主の小田鎮光に嫁がせることにしたのです。


 かって小田鎮光は父政光を竜造寺隆信に見殺しにされたという苦い過去がありました。隆信の命令で少弐氏を攻めながら、苦戦しても援軍要請を無視され討ち死していたのです。そのため新妻が来ても初め心を許しませんでした。

 しかし、お安の献身的で優しい性格に触れ次第に心を許していきます。若い夫婦は次第に仲睦まじい生活を送るようになりました。


 お安が鎮光に嫁いで七年がたちました。破局は突然やってきます。隆信は鎮光に多久の梶峰城に移るよう命令しました。実は多久にいる弟、長信に要衝蓮池城を与えたいからでした。


 こんな身勝手な理由が通るはずはありません。お安も必死に義父に嘆願しますが、「女子供の口を出す事ではない!」と一蹴されました。

 小田夫妻は泣く泣く累代の城を捨て、多久に移っていきました。


 1570年、豊後の大友宗麟が六万の大軍をもって竜造寺隆信を攻めるという大事件が起こります。肥前の諸将も続々と大友軍に寝返ります。隆信に不信感を持っていた鎮光も大友軍に加わりました。


 しかし、大方の予想を裏切り、劣勢なはずの竜造寺軍は隆信の義弟、鍋島直茂の活躍によって今山合戦で大友の大軍を打ち破ってしまいます。


 戦後隆信は、自分を裏切って大友に付いた諸将の粛清を始めました。鎮光は一族郎党を引き連れ筑後に亡命しますが、お安だけは殺されることもなかろうと、佐賀に戻しました。


 愛する夫と離れ離れの生活を余儀なくされたお安は、ふさぎがちの日々を送っていました。そんな中、義父の隆信から「そなたの夫、鎮光が詫びるなら許してやってもよい。小田の家も身の立つようにしよう。そなたから夫に手紙を書き、良く言い聞かせるのだ」と言われます。


 いままでこんな優しい言葉を義父から掛けられたことのないお安は、パッと明るい表情になりました。さっそく筑後の夫に手紙を書くと、紛れもない妻の筆跡に喜んだ鎮光は一族を引き連れ佐賀に戻ってきました。


 しかし、愛する妻と再開もままならず隆信の命によって別の屋敷に案内されます。そこに待ち構えていたのは隆信の討手でした。騙されたと知った小田一族は、必死に抵抗しますがまもなく全員が討ち取られてしまいました。


 愛する夫の非業の最期を聞かされ、お安は号泣します。自分が手紙を書いたばかりに騙し討ちにされたのですからなおさらです。以後、お安は心を閉ざし笑わぬ女になりました。

 よく考えてみれば、一度裏切った者を義父隆信が許すはずなかったのです。夫恋しさ余りそんなことにも気付かなかった自分も責めました。



 一度は自害を考えたお安でしたが、周囲に止められます。そんな哀れなお安は、またしても残忍な義父隆信に政略の具にされます。今度は上松浦党の当主、岸岳城主波多三河守鎮(しげし)に嫁ぐよう命じられました。生きる希望を失い人形のように生きていたお安は黙ってこれに従います。


 お安は波多家に嫁いでから秀の前と呼ばれるようになりました。おそらく波多鎮もこのままいけば隆信に謀殺される運命でしたが、隆信自身が沖田畷で討ち死にしたために命は助かりました。

 しかし秀の前の不幸は続きます。豊臣秀吉九州征伐の折、遅参したかどで領地を取り上げられようとしました。この時は鍋島直茂の必死のとりなしで事なきを得ましたが、「以後波多家は鍋島の陣立てに従うべし」と命ぜられ独立した大名と認められなくなります。


 秀吉の朝鮮出兵の際にも波多軍は鍋島家に属しました。

 
 ここである伝説が生まれます。秀吉は波多鎮の妻、秀の前の美しさを伝え聞き、名護屋に出頭するよう秀の前に命じました。

 夫の留守中です。拒めば御家断絶の可能性さえあります。泣く泣く秀の前は秀吉に拝謁しました。秀吉が自分に好色な目を向ける中、秀の前はお辞儀をするとき、わざと懐剣を畳に落としました。自分に手を出すと自害するという強い意志表示でした。

 しかし、これでかえって秀吉の不興を買い波多家は御取り潰しになったという話です。


 実は、この当時秀の前はどう若く見積もっても四十歳を過ぎており、伝説にすぎないという研究者が多いんですが、五十嵐淳子由美かおるのように年をとっても妖艶な美しさを失わない女性もいるので、あながち伝説と言い切ることもできないと思います。中国にも夏姫のような例がありますからね。


 公式の歴史では、朝鮮の陣で波多鎮が軍律を破ったかどで秀吉の勘気に触れ、流罪になったとされます。二度目の結婚でようやく平穏な日々をおくっていた秀の前でしたが、不幸はまたしてもやってきたわけです。


 秀の前はこの時責任を感じて自害したという説と、仏門に入って八十歳まで生きたという説があります。墓は竜造寺一族の菩提寺、高伝寺にあるそうです。



 有名なお市の方と通じる運命です。美しすぎるというのは、あまり幸せをもたらさないのかもしれませんね。二人の女性はほぼ同世代だと伝えられます。