鳳山雑記帳はてなブログ

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佐賀鍋島藩に関する小ネタ

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 本日、老父と父の従弟の老夫婦の3人を乗せて、肥前太良町で竹崎蟹のフルコースを食べに行きました。私はただの運転手として駆り出されたのですが、まあテレビでも紹介されてるだけあって美味しかったです(笑)。しかもおごりだし!

 コースは熊本県長洲町からフェリーで有明海を横断して島原半島の北部にある多比良港に上陸、海沿いの道を諫早まで行ってそこから経ヶ岳沿いの道を再び海沿いに北上して太良町着、フルコースを食べて今度はさらに北上して佐賀平野を横断して大川、柳川、大牟田経由で玉名着というものでした。


 このグルメレポートは、まあどうでもいいんですが(苦笑)、途中非常に気になった場所がありました。


 それは島原半島に上陸して間もなく。たしか神代町というところ。町村合併で雲仙市になってると思います。


 海沿いの国道251号線沿いに神代鍋島家屋敷跡の看板が!神代鍋島家???どう見てもここは島原半島、確か佐賀鍋島藩の南限は諫早諫早(竜造寺)家のはず?


 ちなみに諫早(竜造寺)家は鍋島家の親類同格(旧主竜造寺一族)で、竜造寺鑑兼の子竜造寺家晴が藩祖です。


 余談ですが、竜造寺鑑兼は竜造寺家兼の末子竜造寺家門の子にあたり、反竜造寺隆信の豪族で少弐被官の土橋栄益・高木鑑房・馬場鑑周・神代勝利・小田政光らに1551年担がれて隆信から家督を奪い、一時当主となった人物。


 隆信に反撃され、間もなく追放されますが幼年の傀儡当主として祭り上げられただけということで許されました。ですから竜造寺一族とはいえ微妙な位置にいた家であるのは確か。しかも鑑兼は水ヶ江竜造寺を継いでいるので家晴も水ヶ江家のはず。諫早家は鍋島直茂が後を継いだ方が何かと都合が良かったのでは?と考えています。


 まあそんな話はどうでもいいんですが、ウィキで調べると家老に神代鍋島家(肥前神代領6,263石(物成2,500石)・重臣) というのがあって、これの事かとも考えます。


 普通なら降りて調べに行くのですが、今回は他人の運転手(しかも蟹おごり♪)という立場上それもできず疑問を抱きつつのドライブになりました。


 神代領があのあたりだったとすると島原半島の北部まで鍋島藩領だったんでしょうか?それとも維新後あそこに移り住んだんでしょうか?神代は「くましろ」でなく「こうじろ」と振り仮名をふってあったし、現地の地名も神代(こうじろ)なんで、鍋島藩領だったのかなあ?



追伸:ネットでありました!!!!

天正12年(1584)龍造寺隆信有馬晴信島原半島の覇権を争った沖田畷の戦い天正15年(1587)豊臣秀吉の九州国割りを経て、神代の地は佐賀領に組み込まれることとなった。
慶長13年(1608)年、神代西村、東村を含む4村が鍋島豊前守信房(神代鍋島家初代)所領となり、明治の版籍奉還まで続く神代領が成立した。

神代鍋島嵩就は、それまで散在していた家臣を集住させるため、城西側を流れる川の流路を変えて外堀と
し内側の深田を埋築し、現在の武家屋敷群が残る小路を造成した。
現在小路地区には、江戸期の区割りがほぼそのまま残り、武家屋敷建築と旧領主館である鍋島邸に代表される明治初期以降の近代和風建築、石垣、生垣、自然林、みのつる川水辺空間などが相まって美しい景観を現在に伝える