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蒲池一族の謀殺  - 竜造寺一族の興亡③ -

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 蒲池氏は筑後の豪族です。関東御家人宇都宮氏の一族といわれています。上蒲池(立花町山下)と下蒲池(柳川)に分かれそれぞれ十万石前後の所領をもった大領主でした。


 実は、柳川城主蒲池氏は竜造寺氏と切っても切れない縁がありました。縁というより恩義でした。竜造寺一族の祇園原における惨劇のとき、竜造寺家兼を匿ったのは下蒲池鑑盛(あきもり)でした。

 このとき鑑盛は「武士は相身互い」といって喜んで家兼を迎えたばかりか、佐賀復帰戦の際にも三百の援兵を付けて肥前に送り出したくらいです。


 伝えられる鑑盛の人物像は、清廉潔白で節義を重んじる武士の中の武士というものでした。また後継者の隆信が内乱で佐賀城を追われた時にもこれを匿っています。竜造寺家にとっては蒲池氏は足を向けて眠れないほどの恩義を受けていたのです。


 おそらく鑑盛の義侠がなければ、川上・祇園原の変で竜造寺一族は滅んでいたことでしょう。

 鑑盛の嫡男、鎮並(しげなみ)の時代になっても竜造寺・蒲池の関係は良好でした。盟友として隆信の筑後進出の際には道案内までしたくらいです。


 その盟友関係が崩れたのは些細な事件が原因でした。筑後辺春城(へばるじょう、八女郡立花町)を竜造寺軍が攻めたとき、これに従軍していた蒲池鎮並は、所領でごたごたがあって一時陣を抜けて柳川城に帰っていてのです。

 諸将からは非難の声が上がります。軽率と言えば軽率ですが、鎮並は「我が家は特別な存在だ」という甘えがあったのかもしれません。


 隆信は、このことを聞いて不快さを隠しませんでした。彼にとっていくら恩義があるといっても、今は蒲池氏は臣下の立場です。それが勝手気ままをされては家中の統制が保てないという判断もあったのでしょう。


 筑後には旧守護の大友宗麟から調略の手が伸びていましたので隆信の疑心は深まるばかりでした。一方、鎮並も佐賀城に謝罪にいっても殺されるかもしれないという怖れを抱いていました。

 実際、隆信の残忍さは有名で、これまでにも幾人もの功臣を粛清していたからです。このあたり織田信長に謀反した荒木村重と共通する心理だったのかもしれません。猜疑心強い主君には、何も言っても通じず最後は殺されるという恐怖があったのだと思います。

 
 はじめは反逆する意思は無かったはずですが、鎮並は隆信への恐怖が先立ち謀反に心が傾いていきます。大友方からの調略もあったと思います。


 蒲池氏の叛心が明らかになってくると、隆信は1580年、二万の大軍をもって柳川城を囲みました。しかし、柳川城は平城ながら無数のクリークが走り、これが天然の堀となった難攻不落の城でした。攻防三百日、城はびくともしません。


 力攻めでは落ちないことを悟った隆信は、謀略をもって蒲池氏を滅ぼそうとします。偽って和議を結び鎮並と家臣団を引き離して滅ぼそうとしたのです。


 この策、どこかで聞いたことはないですか?そうです。まさに竜造寺一族が主君少弐冬尚に謀られた川上・祇園原の惨劇そのものです。因果は巡る、と言いましょうか?戦国の習いとはいえ、後味の悪い策ではありました。


 まず隆信は、和議の礼に鎮並に佐賀城に登城するよう命じます。鎮並とて戦国の武将です。佐賀に行ったらどうなるかくらいは察していたはずです。しかし、自分が犠牲になることで残された家族の命は助けられるだろうという思いがあったでしょう。

 鎮並は恭順の意を示すために、家族を佐留垣城(柳川市大和町)に避難させていました。


 1581年5月、蒲池鎮並一行三百人は佐賀の地において待ち構えていた討手によってことごとく討ち果たされてしまいます。

 隆信は、間髪入れず柳川攻撃の命を下します。しかし竜造寺四天王の百武賢兼でさえ大恩ある蒲池家を滅ぼすことに反対していました。ばかりか出陣を促す妻に「此度の鎮並ご成敗はお家を滅ぼすであろう」と涙を浮かべ、ついに最後まで出陣しなかったと伝えられています。


 竜造寺軍は主のいなくなった柳川城を容易に攻め落とします。隆信は諸将の反対を押し切って女子供がいるだけの佐留垣城にまで軍を差し向けました。城攻めは六時間に渡って行われ、蒲池一族老若男女百人全員が虐殺されたそうです。その中には鎮並の正室や幼い子供たちも含まれていました。


 この事件は筑後をはじめ竜造寺領国全体に衝撃を与えました。隆信の残忍さ、酷薄さを改めて思い知らされた豪族たちは竜造寺家に対する忠誠心を失います。いくら広大な領土を誇っていても人心が離れては国を保てません。そしてこれが1584年、肥前島原の領主で竜造寺家とは姻戚関係まで結んでいた有馬晴信の離反につながるのです。


 晴信の離反は、沖田畷の合戦にまで発展し竜造寺存亡の危機を迎えることになりました。百武賢兼の予言はまさに当たったのです。


 それにしても、隆信を後継者に指名した家兼の目は曇っていたのでしょうか?私はそうは思いません。乱世に国を保つにはやはり隆信の勇猛さは必要だったと考えています。ただ、惜しむらくは人の上に立つ者に必要な人心を得る術をあまりにも知らなすぎたのだと思います。


 それまで仏門に入っていた隆信です。人の上に立った経験のない隆信の欠点を、家兼が知るには時間が無さすぎたのでしょう。いわば緊急避難の状況だったのですから…。



 竜造寺一族は川上・祇園原の惨劇で世間の同情を買い、周囲の援助を受けましたが、蒲池一族虐殺によって逆に世間の指弾を受けることになります。それが諸将の離反となって返ってくるのです。


 一族の興亡は紙一重と言いますが、それを歴史上に示したのが竜造寺一族でした。