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鍋島勝茂の覚悟と佐賀藩の悲劇

 鍋島勝茂(1580年~1657年)と言えば公式には肥前佐賀藩36万石の初代藩主です。というのは父鍋島直茂(1538年~1618年)は実質的な藩主ではあっても公式には竜造寺家の執政という立場でした。直茂は竜造寺隆信の義弟で隆信の北九州制覇に活躍した武将です。沖田畷の合戦で島津氏に敗れ隆信が討ち死にすると、存亡の危機の竜造寺家を支え豊臣秀吉にいち早く恭順し本領安堵を勝ち取りました。ちなみに竜造寺は龍造寺が正式名称なんでしょうが、高橋克彦の竜の柩で龍の古語が竜だと知って以来こちらを使っていますので悪しからず。

 隆信の跡を継いだ子の政家は凡庸で、直茂が秀吉の命令で龍造寺家の家政を見るようになりました。これは江戸幕府になっても引き継がれ、政家隠居後跡を継いだ高房は、飾りだけの藩主であることに我慢できず激高して自害します。病弱だった政家も落胆しまもなく亡くなったため竜造寺嫡流が断絶しました。江戸幕府は竜造寺一族を江戸に呼び寄せ後継者を誰にするか協議させます。その結果、実質的な藩主であった直茂の息子勝茂が正式な藩主となったという経緯です。1607年のことでした。

 このような経緯から鍋島家は旧主家竜造寺一族に気を遣わなければいけなく、竜造寺一族を親類同格という異様な体制で取り込むという無理をしました。さすがにこれでは藩が立ち行かないので、竜造寺一族に領地を半分差し出させ合計8万石ほどに削減します。それでも36万石のうち8万石ですから4分の1を取られていました。

 勝茂には負い目がありました。というのも関ヶ原で西軍に与し伏見城攻めや安濃津城攻めに参加するなど主力の一角となっていたからです。国元で中立を保っていた父直茂は、黒田長政の仲裁でいち早く家康に謝罪し本領安堵を許されます。ですから関が原後、西軍に与した筑後柳川の立花宗茂を幕府の命令で攻めるとき何と3万人もの兵力を動員したくらいです。通常の軍役は1万石につき250人程度。無理をして300人ですから36万石(関ヶ原当時は30万石、検地をし直して35万7千石になった)なら1万人前後がせいぜい。当時の佐賀藩領の人口は20万人もいなかったはずですから、成人男子のほとんどを動員した形です。

 大坂冬の陣にも大兵(おそらく1万以上)を率いて参加、勝茂晩年に起こった島原の乱(1637年~1638年)でも勝茂は3万5千人という異常な数の兵力で幕府軍に参加しています。その他、幕府に気に入られるため各種の普請にも積極的に人と金を差し出しました。こういう無理に無理を重ねれば藩政が立ち行くはずもなく1649年の段階で1万5千貫という莫大な借銀があったそうです。

 勝茂は、借銀の半分を無利息の分割払いにし残り半分は踏み倒すという暴挙に出ました。領民に苛斂誅求が行くのは当然で五公五民なら良いほう、六公四民という一揆が起こらないのが不思議というくらいの状況もあったそうです。ですから36万石という豊かさでありながら藩政は破綻寸前だったと言います。

 勝茂は鍋島家の力を強めるため、自分の息子たちを領主とする蓮池藩小城藩鹿島藩という支藩を設けます。その他、一族や重臣に多くの領地を割いたため藩主の直轄領はわずか6万石しか残りませんでした。勝茂死後も佐賀藩の悲劇は続き、三支藩が勅使接待役に任ぜられると支藩領は佐賀藩本領に含まれていたためその分の負担も加わります。

 幕末になると、ほとんどの大名家は莫大な借金を負いますが。佐賀藩の場合は成立の経緯から最初から台所は火の車だったのです。幕末期、藩政改革に成功し借金を返済し莫大な蓄財をした薩摩や長州が維新を主導することになったのは当然だったのかもしれません。土佐と佐賀はまさに人材の力でそれに伍するようになったのですから、ある意味凄いのでしょうね。