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鍋島閑叟(かんそう)の改革と三支藩との確執

 鍋島直正(1815年~1875年)、号して閑叟。幕末佐賀藩の実質的最後藩主です。形式上は1861年隠居し藩主の座を息子直大(なおひろ)に譲っていますが、実験は握り続けました。徳川幕府最後の将軍慶喜は維新後述懐します。「長州は最初から敵だったから憎くはないが、薩摩は途中で裏切ったから嫌いだ」その中で、幕末期の各大名の評も残っています。鍋島閑叟に関しては「狡い人である」というものでした。

 佐賀藩鍋島家は成立の経緯から幕府に異常なまでに気を使い天下普請に積極的に人と金を出すなど涙ぐましい努力をしてきました。これに加えて旧主竜造寺家の力を削ぐために設けた小城、蓮池、鹿島の三支藩が幕府から勅使饗応役に選ばれるなどただでさえ火の車の台所が破滅的な状況になった時に、直正は藩主の地位に就きます。三支藩の石高は本藩である佐賀藩の内高から出ていたため佐賀藩が負担せざるを得なかったのです。

 もちろん佐賀藩は、天文学的な赤字を解消し少しでも収入を上げるために有明海の大規模な干拓をするなどいろいろな事をやっています。が、あまり効果があったとは言えません。いくらか収入が増えても、出費は増大する一方でした。藩主の座に就いた直正が最初に手を付けたのは中央集権化です。あまりにも三支藩や竜造寺四家(親類同格)の力が強すぎたために思い切った改革ができないと思ったのです。西洋技術を取り入れ富国強兵策を打ち出した直正はアームストロング砲を導入し洋式軍隊を整備しました。

 三支藩に対してもあからさまな圧迫策に転じます。天保13年、幕府が蓮池藩主を寺社奉行に任命しようとしたのを猛烈に反対し潰しました。嘉永4年には鹿島藩主鍋島直彬(なおよし)が幼少で病弱だという理由で廃藩を企てます。これは三支藩すべての反対で失敗しました。支藩も家臣団があり廃藩されたら路頭に迷うからです。人間誰しも既得権益を奪われそうになったら猛烈に抵抗します。いったんは廃藩をひっこめた直正でしたが、腹いせに幕府に運動して鹿島藩の公務を停止し参勤交代も無くさせました。まもなく他の二藩にも適用します。これだけなら三支藩は名目上の格式はともかく負担が減るので大歓迎でしたが、直正はこれまで参勤交代の費用という事で免除していた献米を復活させるなど統制を強化します。さらに佐賀藩福岡藩と交代で担当していた長崎防備への負担すら三支藩に求めたのです。

 直正は、農地改革にも取り掛かります。小作農を保護するため地主の取り分を減らしました。ただ年貢の額は変えなかったので地主が一方的に損をするだけでした。このように直正の改革は犠牲無くしては成り立たないもので、各所から恨みを買ったと思います。そこまでしなければ天文学的な赤字を減らすことはできなかったのでしょう。直正は磁器、石炭、楮(こうぞ)、櫨(はぜ)などの特産品生産にも力を入れ上方で売りさばくだけでなく、海外貿易にも手を出します。世間の人は直正を算盤大名と揶揄しますが、本人は反論したい気分だったでしょう。

 これで佐賀藩の累積赤字がどれだけ解消したかは分かりませんが、佐賀藩を幕末雄藩の一つに押し上げたのはまさに直正の改革のおかげでした。