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薩摩藩の幕末維新Ⅰ 調所広郷

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 島津氏第二十五代、薩摩藩主としては第八代、島津重豪(しげひで、1745年~1833年)が藩主となった時、500万両という膨大な借金がありました。これは幕府の外様大名圧迫政策で各地の治水土木工事を命じ外様大名が力をつけないようしたのです。特に1753年の木曽川治水では30万両という借金を作って完成させ、そのために藩の工事惣奉行平田靱負(ゆきえ)は責任を取り工事完了後自刃するほどでした。

 また江戸中期以降、日本の経済発展に伴い物価は上昇し少々の倹約くらいでは追いつかないほど幕府や各藩の財政は悪化していました。ですから八代将軍吉宗の倹約より尾張宗春の経済振興策の方が正しい政策でした。さて、薩摩藩でも、最初は吉宗に倣い徹底的緊縮財政でこの危機の乗り切ろうとします。これは重豪が隠居し息子斉宣(九代)の時でしたが、当然のごとく大失敗しました。激怒した重豪は斉宣を強制的に隠居させ孫斉興を藩主に据えます。家督相続時斉興はまだ17歳。65歳だった重豪が藩政を見ました。

 重豪はこの危機を脱却するため一人の人物を抜擢します。茶坊主上がりのその人物は調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと、1776年~1849年)といいました。広郷はまず薩摩藩の債権者である大阪商人たちを集めます。ところが彼らは利子すら満足に返さない薩摩藩に対し不満を爆発させました。広郷はそこを宥め透かし時には脅迫して250年賦無利子償還という半ば詐欺的な方法で解決してしまいます。大坂商人たちも借金を踏み倒されるよりはと渋々認めざるを得ませんでした。

 また広郷は、特産のサトウキビを南西諸島で密貿易することで財を蓄積します。藩内の殖産興業にも尽力、投資を盛んにし専売制度を採用し藩財政の健全化に努めました。おかげで広郷の晩年(1840年頃)には逆に200万両の余剰金ができるほどだったと伝えれます。ところが広郷の密貿易は幕府隠密のかぎつけるところとなり、責めを負った広郷は1849年江戸藩邸で自害しました。

 ただ調所広郷の改革は、薩摩藩が幕末で雄飛する原動力となりました。薩摩藩であれ長州藩であれ西国雄藩が幕末に活躍できたのは内政改革で軍資金があったからに他なりません。百万石の加賀藩、六十二万石の仙台藩が大藩であるにもかかわらず活躍できなかったのは、改革に失敗したか改革そのものに着手できず先立つものである軍資金がなかったからです。

 広郷は家老として重豪、十代藩主斉興に仕えますが、彼の改革は藩財政を潤す一方領民の生活を困窮させます。特にドル箱のサトウキビ生産に携わった奄美大島の農民に対する収奪は苛斂誅求を極めました。斉興の跡を継いだ十一代斉彬(1809年~1858年)は、調所が築いた財を基本にし幕末の政界に打って出ます。

 次回は斉彬の登場と幕末政界の動きについて記しましょう。