全く一般受けしないマニアックなネタで恐縮ですが、最近の佐賀藩シリーズの元ネタである『佐賀県の歴史』(山川出版)に貴重な資料が出ていたので書き写しました。
三支藩とは佐賀藩の公式初代藩主鍋島勝茂が自分の子供たちを封じた支藩、親類同格はいわゆる竜造寺四家のことです。藩主鍋島氏の旧主家で佐賀藩成立の過程からも非常に気を遣わなければいけない家でした。ちなみに諫早家は他の三家が竜造寺隆信の子や弟が家祖なのに対し、隆信の祖父家純の弟和泉守家門に始まる家系で、諫早家を興したのはその孫家晴でした。
諫早家は裕福で有名で、島原の乱の起こる直前、領主松倉家の暴政に苦しむ領民が隣国諫早領に逃散しようとしたほどだったそうです。これが逆に藩主松倉勝家を激怒させ、ますます弾圧を強めたとも言われます。上の表を見ると諫早家の豊かさが分かりますね。表高はわずか二万六千石あまりなのに、人口は5万人以上います。これは七万石の三支藩筆頭小城藩を凌ぐほどです。
幕末期、諫早家の内高(実際の石高)が十万石あったとされるのも納得です。気候の厳しい東北地方と違って暖かい西国では大体人口の倍近く米の収穫があったと言われます。表高は幕府が軍役や参勤交代の格式などを決めた石高で、実際の石高である内高と差が大きければ大きいほどその藩は豊かだと言えます。逆に表高と内高の差がほとんどない藩(代表は御三家の一つ水戸藩)は領民の負担が重く一揆が激増したそうです。
おそらく三支藩は参勤交代も独立して行っていたでしょうから経済的負担は大きかったと思います。一方、親類同格の竜造寺四家は定められた表高分人数を差し出すのみでしたから、諫早家は特に軽い負担だったろうと想像します。生きるか死ぬかの瀬戸際だった島原藩の領民からしたら、自分たちと違い豊かで余裕のある生活をしていた諫早家の領民は羨望の的だったんでしょうね。
江戸時代の領民はどこに生まれるかで天国と地獄だったんでしょう。運って本当に大事だなと思いました。
追伸:
親類のうち久保田家も竜造寺一門です。家祖は竜造寺政家の次男村田安良。兄高房(名目上最後の竜造寺家当主)は非業の最期を遂げたのに久保田家が成立したのですから隆信の嫡流は残ったことになります。ちなみに武雄家も竜造寺隆信の子で後藤家に養子に入って継いだ後藤家信が家祖ですから隆信の子孫は意外と繫栄しましたね。
こうなると佐賀の化け猫騒動はお門違いも甚だしいという事になります(苦笑)。参勤交代とか軍役とか天下普請とか面倒なことはすべて鍋島家に押し付けられたんですから、むしろ勝ち組でしょう。