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伊奈忠次と水戸藩

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 徳川家譜代、伊奈氏と言えばその名前から分かる通り信州伊奈郡の出身です。伊奈熊蔵忠基の時代に三河に流れてきて徳川家(当時は松平家)に仕えたそうです。伊奈氏と聞いて戦国ファンはすぐ伊奈図書(ずしょ)昭綱を連想する事でしょう。

 伊奈図書は山城国日岡関の関守の時、福島正則と揉めます。正則は当時伏見に居た徳川家康への使者として家老の佐久間嘉右衛門を派遣しました。ところが嘉右衛門が通行証を持っていなかったため図書は通過を認めず、嘉右衛門は広島に帰り面目を失ったとして自害するのです。これに烈火のごとく怒った正則は、家康に図書の処刑を要求、一歩も引かなかったため家康は仕方なく図書に自害を命じその首を正則に送って宥めました。一説ではこの事件が後の福島正則改易の遠因になったとも言われます。

 伊奈図書昭綱は子供がいなかったためお家断絶になりました。今回紹介する伊奈備前守忠次は昭綱の曾祖父貞正(初代忠基の子)の弟忠家の子に当たります。幕府草創期、武功派の大久保忠隣などは幕府内の権力争いに巻き込まれ没落、忠隣を陥れた策謀家の本多正信、正純父子も他人の憎しみを買って失脚します。戦乱が終わり平和な時代になると軍人や謀臣などより有能な官僚が必要になってくるのです。

 伊奈忠次(1550年~1610年)は、そんな有能な官僚の一人です。初代関東郡代となり代々その子孫が世襲しました。もっとも最近の研究では関東郡代は伊奈氏の自称らしく関東代官と言うのが正しいそうです。忠次は、関東郡代に就任すると水利土木、新田開発と活躍します。ある時、忠次は家康から関ヶ原の後出羽に転封になった佐竹氏の旧領常陸国の検地を命じられました。

 忠次は、家康の期待に応え隠し田などもどしどし摘発し表高(公式な石高)と内高(実質的な石高)がほぼ一緒になるくらいの成果を上げます。常陸天領となっていればそれで問題なかったのですが、常陸国水戸には最初家康の五男信吉が、彼が夭折すると十男頼宣が封じられ、最終的には十一男頼房が入って御三家のひとつ水戸徳川家を形成しました。

 水戸藩は最初二十八万石でしたが、伊奈忠次が厳しく検地したため表高=内高という恐ろしい状況に置かれます。表高は大名の格式を決めるものですが、同時に軍役や参勤交代の負担にも影響するためできることなら表高と内高に差がある方が有難かったのです。水戸徳川家は参勤交代を免除された代わりに江戸定府を命じられます。これが天下の副将軍と水戸家が称する根拠なのですが、他の御三家尾張徳川家六十二万石、紀伊徳川家五十五万石と比べて差があることは明らかでした。官位も尾張家、紀州家が極官権大納言なのに対して権中納言止まり。ちなみに中納言唐名が黄門(正式には黄門侍郎)です。これに我慢ならなかった水戸家は幕府に運動して三十五万石に石高を上げてもらいますが、新田開発もままならない現状では藩財政を悪化させるだけでした。個人的感想ですが精神性が盛岡藩南部家と似てるかも?(苦笑)

 江戸定府も参勤交代しなくて良いというメリットはありましたが、逆に江戸屋敷藩士を増やさなければならず水戸藩は創設当時から慢性的な赤字に悩まされます。このコンプレックスが原動力となり学問を奨励し水戸学を発展させました。そしておそらく自分たちを差別する(たぶんに被害妄想でしたが…)徳川宗家(と徳川幕府)への秘かな反発から勤皇思想を醸成させ、それが幕末維新へと繋がるのです。

 その意味では、伊奈備前守忠次が明治維新を起こした遠因とも言えますね。忠次にとっては不本意でしょうけど。昭綱にしても忠次にしても伊奈氏は融通が利かない一族だったのかもしれませんね。御子孫の方からは怒られるかもしれませんが(苦笑)。