鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

どうでもいい歴史ニュースなんですが、ちょっと感心したもので…

【文化財】太閤検地の先駆け 秀吉の自筆見つかる 兵庫・たつの 


 脇坂氏って、最後は播磨国龍野に封じられていたんですね。家祖の脇坂安治と云えば、賤ヶ岳の七本槍の一人。その後淡路国洲本に封じられ脇坂水軍として朝鮮の役でも大活躍。一時は李舜臣の朝鮮水軍に大敗するも、その後の海戦(釜山浦海戦、熊川海戦、第二次唐項浦海戦、場門浦・永登浦海戦)には勝ち続け、陸戦の第二次晋州城攻防戦でも功を上げています。

 決して有名ではないですが、渋い武将として玄人受けする人物でした。関ヶ原の寝返りだけがイメージ悪いですが、まあ小大名なんでこんなもんでしょ(苦笑)。当時淡路洲本三万三千石ですからね。戦後伊予大洲五万三千石に加増されたとこまではかろうじて記憶の片隅にありましたが、その後まだ安治の代(1617年)に信濃飯田五万五千石に移封、三代藩主で堀田家から養子に入った安政の時代に播磨龍野五万三千石で落ち着いたみたいですね。
 徳川譜代の堀田氏の血が入った時点で準譜代扱い、最終的には譜代大名として老中を歴任したそうです。


 私の勝手な考えですが、東北の山形、中部の長野、近畿の兵庫は小大名の左遷先ってイメージがあります(苦笑)。逆に遠州浜松は小城ながら出世城というイメージ。といっても水野忠邦の例しか知りませんけどね(笑)。

 ちなみに、水野家の場合元の領地肥前唐津は内高二十五万石(表高五万石)もあったのに、老中に出世するために表高と内高にほとんど差のない遠州浜松六万石に自ら転封願い出て家臣一同非難囂々だったそうですよ。DQNの主君を持つと家来も苦労しますな(苦笑)。