私は常々疑問に思っている事があります。佐賀の戦国大名竜造寺氏についてです。肥前佐賀に発祥し隆信の代に突如勃興。最盛期には本拠肥前を中心に、筑前・筑後・豊前・肥後にまたがる領土と壱岐対馬を制し五州二島の太守となったことは戦国史通ならご存知の事と思います。
そんな中一応自分の想像も含めた考えを一度まとめておこうと思ったわけです。ですからこれはあくまで現時点での想像で、今後資料を調べて行くうちに変わる可能性もあります。その時は大幅改定する予定なのでそういうものだと理解して読み進めてください(汗)。
まず竜造寺水軍の存在を匂わせるのは天正8年(1580年)に行われた第2次肥後侵入です。嫡子政家と鍋島直茂に率いられた数万の陸軍と同時に肥前神代(島原半島北部)を発し兵船二百余の水軍が有明海を横断したという記述があります。
陸軍の主力は間もなく引き揚げましたが、その後薩摩の島津氏勢力が北上したため菊池川を挟んで睨み合いが続きました。
両軍は互いに付城を築き長期間の対陣に備えたはずで、竜造寺方の拠点が内野城だったと思うのです。島津方は不明。
ここからは私の想像ですが、竜造寺家の水軍基地の有力な拠点の一つは鹿島にあったのではないかと思います。というのも隆信が政家に家督を譲って隠居した須古城がまさに鹿島の近く、白石にあったのです。
須古城はもともと肥前千葉氏の家臣平井氏の城でした。隆信の千葉氏乗っ取りに反発した平井氏が島原半島の有馬氏に通じて反旗を翻したため永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)という実に12年の歳月をかけて攻略した城です。
地図を見ると大した要害ではないような気がしますが、おそらく有馬氏が海路から支援したため長期間の籠城を可能にしたのだと想像できます。
平井氏を滅ぼし須古城を手に入れた隆信は自分の隠居城として整備し入城します。しかし隠居したとはいえ竜造寺家の実権は隆信にありました。ということは須古城は竜造寺領の重要拠点だったと考えられます。須古は鹿島の近く。私は鹿島に竜造寺水軍の基地があったと想像しているのです。
では竜造寺水軍の実態ですが、今のところ想像に頼るしかありません。まず可能性があるのは肥前の有力な水軍である松浦党です。隆信は上松浦党最大の勢力である肥前岸岳(唐津市)城主波多親(ちかし)を婚姻政策によって天正11年(1583年)従属させます。これには天正5年(1577年)という説もあり竜造寺家とはそれ以前もつかず離れずの関係だったようです。
ただこれは単に服属したというだけで水軍を自由に使えるというものではありません。(武力で脅しながら)協力を依頼するという形だったはずです。
しかも松浦党の本拠地は松浦半島を中心に玄界灘に面する肥前北部。有明海には島原半島の南からはるばる回航しなければなりません。もちろん竜造寺水軍の有力な構成には松浦党は含まれていたはずですが、元々小規模ではあっても有明海に自前の水軍があったはずというのが私の考えです。
このあたり資料が見つからなくて想像に頼るしかないのですが、鎌倉時代元寇後の蒙古再襲来に備えて伊予の河野氏が肥前神埼荘に所領を得て肥前に下向したらしいのです。ネットでみつけた歴史評論に書いてあった記述ですが、再検索したら発見できませんでした。
おそらく玄界灘沿岸の肥前北部は松浦水軍の勢力圏ですので河野水軍は有明海方面に勢力を与えられたはずです。一説では鹿島に近い嬉野(温泉街で有名)の国人白石嬉野氏は伊予河野氏出身だともいわれています。また肥前国彼杵郡の国人、田中氏も河野一族だといわれています。
山代氏といえば、以前内緒記事で紹介した姉川氏と関係がありそうなのです。姉川氏と同族である菊池肥前家の一族が菊池家内部の家督争いに敗れ同地に亡命してきた時、山代一族に婿入りするか乗っ取るかで家名を継いでいるのです。実は私とも関係なくはないのですがそれは内緒です(爆)。
姉川氏の当時の当主姉川信安は、1581年竜造寺軍の肥後計略に従軍し菊池川南岸(当時)にあった貿易港伊倉津を制する横島(山)城(玉名市横島町)に入っているのです。1583年と想像される竜造寺・島津の和睦後どうなったのかは不明ですが、当時(干拓前)の横島城は完全な島で水軍を持たなければ入城する意味がありません。
今のところ最大公約数的に言えるのは、
①竜造寺家は松浦水軍の他に独自の水軍を持っていた。
②その水軍には伊予河野水軍関係の一族が含まれていた。
④姉川氏は山代氏と何らかの関係を結び水軍の一部を引き継いだ。
⑤そのために一族を婿養子か何かの形で山代氏に送り込んだ。
これくらいでしょうか?今後もさらに調査する必要がありますね。