熊本の城跡を紹介しているサイトに
ところが別資料では内野城は鎌倉の頃、有力御家人であった斎院次官・中原親能が大野別符(熊本県玉名市岱明町地区から玉名市街地までを含む荘園)の地頭職、肥後・筑後の守護に任じられた時、守護所として築いたのが始まりだと書かれているのです。
熊本県の城跡を詳細に調べた本を昔熊本市民図書館で見たことがあるのですが、ここでも鎌倉時代築城説でした。実際今でも土塁跡が残っているんですが、その範囲は100m四方くらいのごく狭い範囲(上図の黄色の部分)です。城というより鎌倉武士の館跡くらいの規模しかありません。
一見、内野城と肥前の竜造寺氏はなんの関係も無いように思えます。しかし、郷土史を紐解いてみると天正年間、肥前の竜造寺隆信が肥後侵攻の際海路この内野城に入り、南九州から北上した島津氏と菊池川を挟んで睨み合ったという記述にぶつかります。
現在では海岸線から5キロ以上も内陸になっていますが、当時はこのあたりまで海岸線が入り組んでいたみたいです。実際内野城のある岱明町大野地区は、古名を大野牟田(牟田は低湿地の意味)というくらいですし、そのものずばり三崎(岬?)という地名もあります。
内野城はこれら低湿地に囲まれた小丘陵にあります。
そしてここからが私の勝手な解釈。冒頭の地図は私が勝手に加工したものですが、当時の低湿地でいま水田になってる部分をつなげると、ちょうど堀のようになるのです。北側は明らかに干拓前の当時の海岸線ですが、南側は海岸線にしては不自然だと思いませんか?
これを言いだした郷土史家はおそらく皆無で、この地で生まれ育ってきた私だからこその発想ですが、南側の低湿地は、竜造寺隆信がここを本陣にした時掘削させた堀跡なのではないかと考えました。
資料によるとこの時竜造寺軍は号して五万、実数でもおそらく数万はいたでしょうから短期間でこの程度の工事ならできそうです。