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平安奥羽の戦乱Ⅹ 後三年の役

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 清原家衡が自邸のある陸奥国奥六郡ではなく出羽国仙北三郡の沼柵に籠城したのは、なんと言っても清原氏の本拠地であり一族の助力が期待できたからでした。奥六郡は滅亡した安倍氏の勢力が強く、安倍頼時の娘(有)と藤原経清の子である清衡に味方するものが多いだろうという判断もありました。実際、清衡が立ち上がった時瞬く間に2千の兵が集まったことからもそれが分かります。

 ところが、吉彦秀武に代表されるように自分ではなく源義家清原清衡方に付いた一族が出たことは家衡にとって衝撃だったかもしれません。家衡の目論見は、源氏の主力を地の利を得た自軍が拘束し泥沼化させることでした。そうしておいて、手薄になった奥六郡に自軍の一部を送り込み後方を攪乱する。そうなれば遠く関東から遠征してきている源氏軍主力は敵中に孤立し撤退せざるを得なくなるという読みでした。そのためには自身が沼柵でできるだけ長期間源氏軍を引き付けておかなくてはなりません。雄物川とその支流皆瀬川が形成する大湿地帯に浮かび上がった水城沼柵はその格好の舞台でした。

 陸奥源義家率いる源氏・清衡連合軍が沼柵を囲んだのは1086年冬です。家衡は貝のように閉じこもり源氏方の挑発にも乗りませんでした。湿地帯を小舟で渡り攻撃しようとしても、断崖と柵に阻まれ不可能です。結局、正門から順番に攻めていくしか手がありませんでした。義家は沼柵を望む八幡野に本陣を置きます。攻撃に際し、第一の難所は志戸ヶ池の隘路でした。家衡軍は、柵と空堀、水堀を巧みに組み合わせ源氏軍を待ち構えます。第一回総攻撃は隘路を進む源氏軍を正面と側面から家衡軍が矢の雨を降らせ始まりました。ここで淵が源氏軍の死者で埋まると言われるほどの大打撃を受けます。

 多くの犠牲も顧みず源氏軍が支戸ヶ池の隘路を突破すると今度は首塚の防御線です。首塚というのは後世の名付けのような気がします。というのも、ここでも多くの源氏方の武者が倒されたからです。首塚と沼柵主郭との間には川(水堀?)が流れていたそうで、この川を挟んで激戦が繰り広げられました。双方の戦死者は890名にも上ったそうです。それでも源氏軍の一部は突破に成功し本丸近くの棒突まで達します。が、ここまででした。逆茂木に進路を妨害されているうちに家衡軍の逆襲を受け敗退しました。

 思いもよらす損害を出して、源氏軍は一時兵を引きます。ただ同じような攻撃をしても犠牲が増えるだけなので攻めあぐねたというのが実情でした。睨み合いが続きます。戦いはその後数か月続きました。家衡というより清原軍の抵抗は見事でした。極寒の冬は、包囲する源氏軍により厳しいものとなります。ここまで長期化すると思っていなかった源氏軍は十分な兵糧を準備していなかったのです。陸奥国から兵糧を送ろうにも、奥羽山脈の峠道は豪雪で阻まれました。大雪の中、源氏方は軍馬を殺して食料にするほど追い詰められます。

 義家は清衡はじめ主だった幹部と相談し、ついに撤退を決断しました。家衡は緒戦で勝ったのです。家衡の叔父武衡は、これに気を良くし自らの本拠地で出羽一の要害と評判の高い金沢柵(秋田県横手市金沢)への移動を勧めました。家衡も納得し金沢柵に移ります。ここで私は疑問に思うのですが、何故沼柵を放棄したかです。実際に勝ったのは沼柵のおかげだったはず。もしかしたら、湿地帯の中にあって生活環境が悪かったからではないかと想像します。その点、金沢柵は周囲が断崖絶壁の丘陵上にあり過ごしやすかったかもしれません。

 一方、陸奥国多賀城に逃げ戻った義家は軍の再編成に着手しました。今度こそは失敗は許されないのです。清衡も奥六郡を固めるとともに来るべき再遠征の準備に余念がありませんでした。その時期は雪解けを待った春。源氏軍と清原軍最後の決戦は刻一刻と迫っていました。


 次回、最終回金沢柵の戦いを描きます。