鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

#日本史

出雲尼子軍記Ⅶ 尼子氏滅亡

毛利元就が陶晴賢を滅ぼして旧大内領の併呑を進めている頃、尼子晴久はどう動いていたでしょうか。大寧寺の変の翌年1552年、13代将軍足利義輝により山陰山陽八か国の守護は追認され、従五位下修理大夫に昇りました。幕府相伴衆にもなり、対外的にはその威勢…

出雲尼子軍記Ⅵ 月山富田城攻防戦

尼子勢が吉田郡山城を攻囲中の1540年10月、但馬守護山名祐豊、因幡山名氏の重臣武田常信の後援を受け、かつて経久に伯耆国を叩き出されていた諸将が伯耆に侵入します。晴久は叔父国久率いる新宮党3千を討伐に向かわせました。新宮党は目覚ましい活躍で伯耆勢…

出雲尼子軍記Ⅴ 吉田郡山城の戦い

1537年祖父経久に家督を譲られた晴久(1514年~1561年)。祖父の後見の下ではありましたが晴久は目覚ましい活躍をします。1538年には大内義隆(義興の子)から石見大森銀山を奪取。因幡国を平定し、播磨に進出し播磨守護赤松晴政の軍勢を撃破しました。播磨…

出雲尼子軍記Ⅳ 十一州の太守

前回記した経久による月山富田城奪還の経緯は軍記ものでは有名ですが、史実かどうかははっきりしません。単に守護代職を剥奪されただけで出雲において一定の勢力を保ったという説もあります。 ともかく実力で月山富田城を奪還した経久は、出雲統一に向けて戦…

出雲尼子軍記Ⅲ 月山富田城追放

皆さんは尼子経久(1458年~1541年)と聞いてどのようなイメージを持っていますか?私は何と言っても1997年放送のNHK大河ドラマ『毛利元就』の緒形拳です。超大国の主として鷹揚とした細川俊之演じる大内義興と違い、策謀を内に秘めた油断も隙もない人物、そ…

出雲尼子軍記Ⅱ 尼子清定の台頭

※ 家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 室町幕府の守護大名から戦国大名に成長した常陸の佐竹氏、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、周防の大内氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏などには共通した一点がありました。それは京都に上らず在国で支配を強化した事です。…

出雲尼子軍記Ⅰ 出雲守護代尼子氏

※ 家系図は武家家伝播磨屋さんから転載 戦国時代、出雲を中心に山陰山陽11か国に勢威を振るった尼子氏。一時は防長二国と九州の筑前・豊前を支配した大内氏と互角以上の戦いをしながら、最後は毛利氏にあっけなく滅ぼされました。実質的な尼子領国の建設者経…

歴史好きにはたまらんね

徳川家康が豊臣家を滅ぼした大坂冬の陣を記録した巨大陣図が見つかる…広島県立歴史博物館! これを見ると真田丸は従来言われてきた半円形ですな。この絵がどこまで正確に書かれているかは疑問ですが…。 現実の地形とは違うので概念図なのかもしれません。た…

大内氏の防長平定  後編

1333年鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇による建武の新政が始まります。周防国は1334年またしても安芸国とともに大内裏造営の料国と定められ、加えて鎌倉御家人・地頭に対しても得分の二十分の一の造営費が課せられました。しかも当時は法勝寺領国となってお…

大内氏の防長平定  前編

大内氏に関しては過去何度か記事にしています。 周防大内一族前編 周防大内一族後編 大内氏の滅亡と厳島の合戦 です。 それだけ思い入れの深い一族なのですが、今回『山口県の歴史』(三坂圭治著 山川出版社)で大内氏の周防・長門(現在の山口県)平定の詳…

斎王って屋敷があったんだね

【考古学】平安京、新たに大型建物跡 未婚の皇女「斎王」の邸宅? 斎王というのは伊勢神宮や賀茂神社に仕えた未婚の皇女のことで、伊勢神宮に仕える斎王を斎宮、賀茂神社に仕える皇女を斎院と呼んだそうですね。ググってみると日本書紀によれば崇神天皇の頃か…

江戸時代の貨幣価値

最近、山口県の歴史(山川出版社、三坂圭治著)を読んでいるんですよ。大内氏の発展の話が面白くて、尼子氏との攻防を新たに記事にしようかと過去記事を読み直していたんです。 2010年2月15日に書いた『石見銀山の産出量』に至ったところ、石見銀山の産出量…

確かに前方後円墳には見えるが…

【九州説!】福岡県の赤村に巨大な前方後円墳。古代史ファンは「卑弥呼の墓では?」と期待の声 この地形が前方後円墳だとすると全長450m、日本最大の仁徳天皇陵(大山古墳)に匹敵する大きさだとか。 前方後円墳は3世紀中ごろに出現しますが、卑弥呼の時代は…

西村艦隊よ永遠に

フィリピン沖で戦艦「山城」「扶桑」のほか駆逐艦「満潮」「山雲」「朝雲」も発見…近隣海底にもう一隻も! レイテ沖海戦の一戦闘として行われたスリガオ海峡夜戦。西村祥治中将率いる第一遊撃部隊第三部隊は戦艦山城を旗艦とし戦艦扶桑、重巡洋艦最上、駆逐…

反日パヨク学者の歴史捏造には怒りを覚えます

【日本史】「鎌倉」でなく「北条時代」が区切り 時代区分に新提案 明治以前を「古墳→大和→山城→北条→足利→織豊→徳川」★3 鎌倉時代は鎌倉時代だろ?すくなくとも源頼朝が征夷大将軍に任命され鎌倉に開いた幕府だから鎌倉幕府であり鎌倉時代でないとおかしい。…

土佐藩の幕末維新余話  陸援隊・海援隊のその後

土佐藩の幕末維新、書き終わった余韻が未だ覚めやりません。本編で書ききれなかった陸援隊と海援隊のその後について簡単に記します。 まず陸援隊。中岡慎太郎が創設した陸援隊は討幕のための浪士隊でした。もちろん土佐出身者が中心で中岡横死後は同志であっ…

土佐藩の幕末維新Ⅵ  土佐藩の終焉(終章)

大政奉還が行われた1867年10月14日、実はこの日は薩摩藩と長州藩に対し討幕の密勅が下った日でもありました。薩摩の大久保利通と公卿岩倉具視が中心となった陰謀ですが、彼らにとっては坂本龍馬の動きは邪魔でした。この事から龍馬暗殺に薩摩藩関与説がある…

土佐藩の幕末維新Ⅴ  大政奉還

龍馬が亀山社中を設立する際、薩摩藩の援助がありました。ですからあとは長州藩を貿易の利で結び付ければ薩長同盟は成るのです。近年龍馬の業績を過小評価し亀山社中自体が薩摩藩主導で、長州藩首脳との話し合いで同盟が成立したという説が出てきています。…

土佐藩の幕末維新Ⅳ  坂本龍馬

土佐勤王党の悲劇は、山内容堂が見せる勤王の姿勢はあくまで形だけのもので本音が幕府存続にあったという事に気付けなかったことです。いや気付いてはいても信じたくなかったというのが本音でしょう。加えてテロによって奪った権力は別の力によって滅ぼされ…

土佐藩の幕末維新Ⅲ  土佐勤王党

武市半平太小盾、号して瑞山(1829年~1865年)。長岡郡吹井(ふけ、現高知市内)に生まれる。武市の家は郷士のうちで白札とよばれる家系でした。白札とは掛川衆である上士、長宗我部旧臣で一領具足の後身である郷士の中間に位置し、郷士でありながら藩の下…

土佐藩の幕末維新Ⅱ  吉田東洋

山内容堂が佐幕と勤王の板挟みになり公武合体論を推進したことは前に書きました。そしてその理想を実現しようとしたのが容堂の抜擢した土佐藩参政吉田東洋(1816年~1852年)です。 吉田家の祖は長宗我部家の重臣吉田重俊。吉田家は土佐藩では200石の馬廻役…

土佐藩の幕末維新Ⅰ  山内容堂

国民的歴史作家司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』で坂本龍馬を中心とする土佐郷士たちの生きざまを描きました。彼はその郷士たちがどのように生まれたのか興味を覚え『夏草の賦』で長宗我部元親と土佐郷士の先祖である一領具足の戦いを描きたかったと述べていま…

火縄銃の火薬の話

火縄銃、西洋で言うところのマッチロック式マスケット銃の火薬は黒色火薬です。硝石75%、硫黄10%、木炭15%で構成されています。 日本は火山国なので硫黄は豊富にあります。森林資源も豊富なので木炭もあります。ただ一番重要な硝石は輸入に頼らざるを得ま…

長宗我部戦記Ⅸ  長宗我部氏滅亡

元親が溺愛していた長男信親の娘と娶わせるためだけで後継者として選ばれた盛親(1575年~1615年)。盛親は増田長盛を烏帽子親として元服します。盛親の不幸は、父元親の死後わずか1年余りで関ヶ原合戦を迎えたことです。 豊臣大名たちは、次の天下人として…

長宗我部戦記Ⅷ  元親の死

秀吉の四国遠征の結果元親は土佐一国に押し込められます。阿波は論功行賞により蜂須賀家政(正勝の子)が獲得しました。讃岐は十河存保領3万石を除き仙谷秀久が得ます。一躍10万石の大名になった秀久は喜び勇んで入国しました。この秀久という人物、武勇はあ…

長宗我部戦記Ⅶ  秀吉の四国攻め

1582年6月2日の本能寺の変以後歴史は大きく動き出します。早くも6月13日には毛利氏と和睦し中国大返しを行った羽柴秀吉が山崎の合戦で逆臣明智光秀を討ちました。信長亡き後の織田家の後継者を決める清洲会議が6月27日。ここで秀吉は、ライバル柴田勝家を圧…

長宗我部戦記Ⅵ  四国平定

長宗我部元親が土佐を統一したころの四国の情勢を見ていきましょう。 阿波は守護細川真之と守護代三好長治が支配権を巡って血で血を洗う内戦中でした。讃岐は西に香川氏、中央に香西氏ついで羽床(はゆか)氏、東には三好一族の十河氏が盤踞していました。伊…

長宗我部戦記Ⅴ  四万十川の戦い

安芸氏を滅ぼした長宗我部元親は1570年一条氏の属城蓮池城(土佐市)を落とします。翌1571年には高岡郡半山(はやま)城主津野勝興を降し元親三男親忠を養子に入れ家督を継がせました。ただ、幡多郡の一条氏への攻撃は控えます。それは長宗我部家中に一条氏…

長宗我部戦記Ⅳ  国虎

安芸氏はその出自がはっきりしません。壬申の乱で敗れ土佐に流罪となった蘇我赤兄の後裔という説もあれば、惟宗氏出自説、橘氏説、藤原氏説もあります。近年安芸郡少領凡直伊賀麻呂の子孫ではないかという説が有力になっていますが、まだ確定ではないそうで…

長宗我部戦記Ⅲ  姫若子

1522年長宗我部国親は土佐一条房家の肝入りで妻を迎えます。彼女は美濃斎藤氏の出身でした。父は美濃守護代を務めた斎藤利良。美濃守護土岐家の家督相続問題で守護政房の不興を買い失脚。土佐一条氏のもとに身を寄せていたのでした。彼女の名は分かりません…