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平安奥羽の戦乱Ⅶ 運命の子

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 鎌倉時代の源氏を中心とした歴史を記した『吾妻鑑』によると、安倍頼時には三人の娘がいたそうです。長女は有加 一乃末陪(ありか いちのまえ、生没年不詳)といいました。次女は中加一乃末陪、三女が一加一乃末陪です。明らかに蝦夷風の名前ですから便宜的に長女を有(ゆう)、次女を中(なか)、三女を一(いち)と呼ぶこととしましょう。このうち有は亘理権大夫藤原経清に嫁ぎました。次女中は平永衡正室となります。

 厨川柵が落城したとき、経清の妻だった有は息子清丸と共に清原軍に捕らえられました。戦乱の世ですから、一族が滅びると捕らえられた女は強姦され遊女として売り飛ばされるか、そのまま殺されます。一部、有力者の妻や娘はこのような敵兵の乱暴狼藉からは逃れられましたが、人権など無きに等しく味方の有力者に戦利品として配られるのが常でした。

 有も清原武則の息子武貞の妻にされます。そこに彼女の意思など皆無でした。この時武貞は真衡という成人した嫡男がいましたから40歳前後だったと思われます。欲深で悪人ともいえる父武則と違い、武貞は裏表のない単純な武人だったそうです。真衡を生んだ正室がすでに亡くなっていた為有を溺愛します。有の連れ子である清丸も養子として迎えました。まもなく武貞と有の間に家衡(不明~1087年)が生まれます。清丸も元服し清衡と名乗りました。

 武貞の嫡子真衡、三男家衡と違い養子だった清衡は、父の仇清原一族に囲まれ気の休まる暇はなかったでしょう。いつ殺されてもおかしくなかったからです。いつしか清衡は自分の心を表に出さないようになりました。沈着冷静な性格は不幸な少年時代に培われたのでしょう。成長した清衡は、滅亡した安倍氏の旧領奥六郡のうち江刺郡を任されるようになり豊田(岩手県奥州市江刺)に館を築きます。ただ郎党は60人にも満たず、鎮守府将軍として胆沢城に入っていた清原武貞の監視がしやすいという理由もありました。武貞自身はそうでなくとも、安倍氏の血を引く清衡は、他の清原一族から警戒されました。一方、滅ぼされた安倍氏の遺臣にとっては清衡の身が最後の希望です。

 清原武則がいつ死んだのか分かりませんが、父の死を受け鎮守府将軍職と仙北三郡・奥六郡の支配権を得た武貞もまた死の床が近づいていました。後を継いだのは嫡男真衡。この時40歳を超えていたそうです。清衡は27歳、弟家衡も20歳前後でした。そこから近い年、1083年源義家(1039年~1106年)が陸奥守として赴任することに決まります。義家にとっては思い出深い奥州です。今回の赴任は義家自らが運動したとも伝えられてますので、父の代からの悲願である奥州支配を完成させたいという野望があったのは確かでしょう。

 清原一族にとって悩みがありました。当主真衡は40歳にもなって子がなかったのです。養子の清衡に相続権はありませんから、三男家衡を後継者にしようという勢力が生まれるのも自然でした。ところが真衡は起死回生の打開策を表明します。武家の名門である元出羽国司平安忠の次男成衡と源頼義前九年の役の帰途常陸の豪族の娘に生ませた姫を夫婦養子として迎え後継者にしようというのです。名門源氏と平氏の血を引く者が後を継ぐのですから表向きは反対できません。ただ清原一族の間では、自分たちを蔑ろにする真衡のやり方に反発を覚えるものが多く居ました。

 中でも、清原武則の娘を妻に持つ吉彦秀武(きみこ の ひでたけ、生没年不詳)はその急先鋒でした。もちろん真衡にも計算があります。母が違うとはいえ実の妹が嫁ぐのですから、陸奥源義家も義理の父である自分を蔑ろにはすまいと考えていたのです。後は陸奥国府の権威を背景に家衡とその与党を潰すのみ。

 事件は夫婦養子を迎える婚礼の日に起こりました。吉彦秀武は祝いの砂金をもって真衡に面会を求めます。ところが清衡は奈良法師との囲碁に夢中となって秀武を無視しました。意図的に嘲弄したともとれますが、庭で何時間も待たされた秀武は激高し砂金をぶちまけて帰りました。その際、清衡、家衡兄弟を呼び寄せ「自分は出羽で兵を挙げるから、真衡が追討で出羽に入ったすきに挙兵せよ」と囁きます。この時清衡は沈黙を保ちますが、家衡は喜色満面で頷いたそうです。


 次回、清原一族の内訌と源義家の介入を見ていくこととしましょう。