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平安奥羽の戦乱Ⅳ 黄海(きのみ)の合戦

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 亘理権大夫藤原経清の寝返りで源頼義の作戦は安倍軍に筒抜けになります。衣川柵を中心に領内各地の柵で頑強に抵抗する安倍軍を攻めあぐねた頼義は、奥六郡のさらに北、糠部の蝦夷(現在の八戸市を中心とした青森県東部)に使者を出し安倍氏を南北から挟撃しようと画策していました。この事を経清から聞いた安倍頼時は、自ら軍を率い糠部へ出陣します。頼時は戦争というより現地の俘囚長安倍富忠を説得し味方に引き入れようと考えました。ところが、富忠は源氏方=陸奥国府に味方すると決めていたので頼時の懐柔を拒否、逆に頼時の軍に奇襲をかけます。

 戦いは二日間続き、頼時は流れ矢に当たって負傷しました。頼時は鳥海(とりうみ)柵(岩手県一関市大東町)まで運ばれますが、そこで傷が悪化し亡くなります。後を継いだのは長男貞任(1019年~1062年)です。貞任は血気盛んで、父頼時の領土に籠って源氏軍の疲弊を待つ専守防衛策に反対でした。家督を継ぐと一転積極策に打って出、衣川柵を出て南の黄海柵、河崎柵に進出します。黄海柵は現在の一関市藤沢町黄海にありました。市の中心地からは東南に20㎞くらい。山間の盆地で北上川の支流黄海川が流れていました。

 頼義もこの挑戦を受けないわけにはいきません。今まで敵が柵に籠って出てこなかったから困っていたのですから。ただ、この時源氏軍は兵糧確保のため部隊を各地に派遣し頼義の手元にはわずか1800しかいませんでした。この頃陸奥国は凶作で兵糧が不足していたのです。1057年11月、頼義は不利を承知で出陣します。両軍は黄海川を挟んで対峙しました。戦いは猛吹雪の中行われたと言います。黄海柵の中で暖かい寝床とたっぷりの食糧を得ていた安倍軍、一方源氏軍は兵糧も不足し寒さに慣れないため疲弊していました。兵力も源氏側が劣勢、何故この状況で頼義が戦いを選んだか理解に苦しみますが、安倍軍が柵に籠って出てこない事に焦っていたとしか思えません。

 源氏方の兵は弓をつがえるのにも難渋したそうです。地理に暗い源氏軍は、安倍軍の誘いに乗り黄海柵と河崎柵の中間地点に引き込まれます。南北から挟撃された源氏軍は壊滅的打撃を受けて大敗しました。戦死者数百名、頼義自身も一時は敵に包囲され危なかったと言われます。頼義の嫡男八幡太郎義家は旗下の六騎と共に敵陣に斬りこみ頼義を救出しました。

 これは史実として確認できなかったのですが、ある時戦闘に負けた頼義、義家親子は郎党と共に安倍軍の軍装で敵中を突破しようとしていました。そこへ通りかかったのは藤原経清。経清は頼義・義家と見破ったものの、かつての恩を思い出しあえて見逃したと言われます。これも弁慶の勧進帳の話と同様後世の脚色のような気がします。ただそれに似たような状況はあったかもしれません。

 黄海の戦いの結果、再び戦争は膠着状態に陥りました。安倍軍がいくら局地的戦闘で勝とうとも、せいぜい源氏軍を領内から追い払うだけで戦争そのものの勝利にはならなかったからです。相手が陸奥国府である限り、たとえ源頼義が失敗しても新手は次から次へと現れます。ただ武家の棟梁を自認する頼義としたら、敗北は河内源氏の声望が地に堕ちることとなるので絶対に負けられない戦いでした。

 貞任は、戦略的には勝ち目がなくとも戦術的に勝ち続けることで起死回生の勝利を狙っていたのでしょう。その後戦争は五年続きますが、安倍軍は源氏軍を押し続けます。そのうちに頼義の陸奥守任期が切れました。新たに陸奥守に任命されたのは高階常重。ただ戦が続いていることに恐れをなした常重は赴任を拒否。結局頼義の陸奥守重任で落ち着きます。

 頼義のもう一つの官位、鎮守府将軍には任期がなかったようなので戦争指導自体は続けられますが、行政長官である陸奥守でないと自由に年貢を徴収し軍費に充てることができなくなるのです。安倍軍は攻勢に転じました。奥六郡から出撃し北上川下流郡衙を襲うと勝手に兵糧を徴収し略奪を行います。追い詰められていたのは源氏方だったのかもしれません。困り果てた頼義は、出羽仙北三郡の主清原氏を味方に引き入れようと考えます。ところが何度使者を出しても、清原光頼は中立を保ちました。

 実は清原氏には安倍陣営からも味方に付くよう誘いが来ていたのです。清原氏自身も厳しい選択を迫られていました。この状況で中立は許されなかったからです。

 次回、前九年の役の帰趨を決めることになる外交戦を描きます。