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平安奥羽の戦乱Ⅸ 骨肉の争い

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                              ※ 清原家衡

 陸奥源義家の命で兄清衡の豊田館に入った家衡。兄弟の母有も同行したそうです。母にとっては久々に訪れた親子団らんの時でした。しかし清衡と家衡の間には表面上の和やかさと違い冷たい空気が流れます。おそらく清衡は弟家衡に決して気を許していませんでした。同じく家衡も兄を討つ機会を虎視眈々と狙います。

 私が想像するに、清衡と源義家の間に暗黙の了解があったように思います。家衡の落ち度を見つけて法の下に処断するつもりだったように見えるのです。その後奥六郡の支配権を清衡が取り戻す見返りに、源氏に奥州の良馬と金を供出し義家の覇業を助けると。

 家衡は豊田館の外に潜む部下たちと示し合わせ清衡が隙を見せるのを待ち続けました。ところがこの暗殺計画は既に清衡に漏れていました。しかし、清衡は何食わぬ顔で日常を過ごします。1086年清衡が奥六郡の年貢を取りまとめ陸奥国府に搬出する日がやってきました。清衡は定められた年貢を調べ間違いないことを確認すると豊田館を出立します。清衡が完全に館を離れたことを確認すると、家衡は館近くに潜ませていた部下たちを呼び寄せ火を放ちます。油断していた清衡の郎党たちは次々と討たれ、清衡の妻子は蔵に押し込まれました。家衡の討手は清衡にも迫ります。清衡は危険を察知し行方をくらましました。

 焦った家衡は、清衡に対し「妻子の命を助けたくば出頭せよ」と触れ回りました。清衡はこれを無視。結局清衡の妻子は家衡の軍勢によって焼き殺されます。清衡は何故妻子を見殺しにしたのでしょう?暗殺計画を事前に知っていたのなら妻子を逃がすこともできたはず。清衡はあえて目的のために鬼になったのか?ただ、そのために犠牲になった清衡の妻子は浮かばれません。一説ではこの時殺された清衡の家族の中に家衡の生母でもある有も入っていたといわれます。それならば清衡と同じくらい家衡も鬼畜という事になるでしょう。戦乱の世の習いとはいえ現代に生きる我々から見ると胸糞の悪くなる話です。

 清衡に同情的な見方をすると、家衡に対抗できる軍勢を集め人質の家族を救出するつもりだったとも言えます。実際清衡は軍勢を集め豊田館に戻ってきたからです。家衡は清衡の家族を惨殺するとすでに館から去っていました。おそらく奥六郡の中(それも胆沢城近く)にあった家衡の館には戻らず、遠く出羽国横手盆地の南西部にあった沼柵に籠城します。沼柵は雄物川とその支流皆瀬川に囲まれた湿地帯の中の半島状の丘陵にあり入り口は陸続きの南側のみ。攻めるに難く守るに易いと言われた難攻不落の水城でした。軍記物では家衡は5千の兵と共に立て籠もったと伝えられます。

 家衡の暴挙は、陸奥国府に駆け込んだ清衡によって訴えられました。陸奥守義家は待っていたとばかり軍勢を整え出羽に出陣します。清衡も手勢を率いこれに合流しました。この時の両軍の兵力を見てみましょう。義家率いる源氏軍は国府の兵3千と義家直卒の兵、そして地盤の関東から駆け付けた武士たちの兵を合わせ6千はいたでしょう。清衡も安倍氏の遺臣たちが次々と参加したため推定2千。一方、家衡は他の清原一族の兵を糾合し6千くらいでしょうか。ただ吉彦秀武の動向は不明で、いまだに沈黙を保ち続けていました。

 家衡の叔父武衡は、煮え切らない秀武の態度に怒り味方につけるため直接秀武の館に乗り込みます。本来なら家衡を焚きつけたのは秀武ですので、真っ先に味方するのが筋でした。ところが秀武は、源氏軍の動向を探らせ、義家の弟新羅三郎義光が官位を捨てて兄を助けるために3百の手勢と共に馳せ参じたという報告を聞いてついに決断します。これで関東武士の参加がさらに増加するはずだと読んだのです。秀武は別に家衡に恩など受けておらず、自分の私利私欲のために家衡を利用しただけでしたので、こうなるのは必然でした。

 秀武は武衡を口汚く罵り館から追い出します。そのまま同心の清原一族と語らい出羽に入っていた義家の陣に伺候しました。秀武は義家の前に出る時、揉み手をするようにして現れたと伝えられます。歯の浮くような阿諛追従をする秀武に武人である義家は苦々しく思ったそうですが、だからといって追い返すほど無能ではありませんでした。どのような人間であろうと味方は一人でも多いほうが良いのです。驚くべきはそれまで蔑ろにしてきた清衡にさえ臣下のような態度をとったこと。秀武の卑劣さを責めることはできません。生き残るのは一種の芸です。戦後の力関係まで読んでいた秀武が一枚上手だったというだけ。そんな秀武に見限られた事でも、家衡の器量の無さが分かります。

 一族にも裏切られ後が無くなった家衡。一方義家はこの戦いを源氏と清原一族との最後の決戦だと定めていました。次回、沼柵攻防戦から金沢柵へと向かう後三年の役の戦いを記します。