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平安奥羽の戦乱Ⅴ 外交戦

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                              ※ 清原武則


 日本史で清原氏と言えば舎人親王を始祖とする皇別氏族平安時代には中級貴族となり清少納言が有名です。出羽清原氏はこの清原氏の後裔を称しますが良く分かりません。出羽国府の在庁官人だったことは確かですが、朝廷から出羽の俘囚長に任命されたことから清原氏後裔説には疑問があります。ただ元慶の乱(平安時初期、俘囚が秋田城を襲った反乱)の時、清原令望(よしもち)が討伐軍に加わって出羽に来たという記録があり、そのまま在庁官人になったとすれば後裔説もあり得ます。要は日本人か俘囚の末か良く分からないという事です。一番あり得そうなのは、清原令望が俘囚長の娘を側室にし、その子が俘囚長の後を継いで清原氏を名乗ったというケース。

 清原氏陸奥安倍氏と同様、仙北三郡の年貢徴収を請け負いそのまま勢力を扶植しその地を支配する豪族となりました。戦国末期から江戸初期の数値ですが、この地の生産力は約12万石。奥六郡とほぼ匹敵する勢力です。安倍一族の抵抗に苦しんでいる源頼義にとっては、清原氏を味方に引き入れられるかどうかが戦いに勝利するカギでした。同時に安倍氏にとっても清原氏がどちらに味方するかどうかで戦いの帰趨が決まるのです。

 源氏、安倍氏どちらも清原氏に対し何度も使者を送りました。この頃清原氏の当主は光頼でした。生没年不詳ですが、老齢であったことは間違いないでしょう。清原氏安倍氏と通婚を重ね、安倍貞任の弟宗任の母も清原氏出身でした。清原氏でも光頼の弟武則の妻は安倍頼清の娘です。すくなくとも安倍頼時が挙兵するまでは安倍氏清原氏は良好な関係を保っていました。光頼は双方の使者を受け悩みます。そして出した結論は中立でした。現在戦争が起こっているのは陸奥国出羽国は直接関係ない。出羽国国司や軍事を司る秋田城介からの命令があるならともかく、他国に出兵するのは越権行為であるという言い訳は立ちます。

 ただ、陸奥国府と安倍氏の戦いである以上、清原氏がいつまでも中立を保ち続けることは許されませんでした。征討軍の大将源頼義は朝廷の命を受け叛徒を討ちに来ていたからです。使者の報告を受けた頼義は、光頼ではなく弟武則にターゲットを絞りました。「安倍氏を滅ぼしたらその領土はそっくり清原氏に差し上げる」という甘言に釣られた武則は、兄光頼に出兵して源氏に味方するよう詰め寄ります。兄弟の間で激論が繰り返され、一時は光頼が武則を義絶するほどの騒ぎになりました。清原一族の中で、光頼の慎重論より武則の積極策を支持する声が大きくなり、ついに光頼は源氏方に付く決断をします。そしてこの時点で清原氏の主導権は弟武則に移りました。

 清原武則は軍記物によると一万騎で陸奥に入ったとされますが、当時の生産力・人口からこれはあり得ません。妥当なところで3千から4千の間だったと推定されます。安倍氏の総兵力は、総力戦ですから7千くらいはいたでしょう。清原軍が加わったことで、源氏軍は総勢1万近くに膨れ上がります。清原氏の援軍が加わった源氏軍は、1062年8月貞任の叔父僧良照が籠る小松柵(一関市上黒沢)に襲い掛かりました。

 小松柵は東南を磐井川、西北を絶壁で囲まれた要害です。果敢に攻撃する源氏軍に、安倍軍は矢の雨を降らせ巨木を崖上から投げ落としたと言われます。源氏軍が怯むと柵門を開いて騎馬隊が突出し源氏軍は第三陣まで攻め込まれました。が、安倍軍の攻勢はここまででした。数の優位が物を言い源氏軍は安倍軍を押し戻します。安倍軍の騎馬隊が柵内に逃げ戻ると背後から火の手が上がりました。源氏軍の別動隊が柵の背後から秘かに侵入していたのです。猛火に包まれ小松柵は陥落、良照もたまらず逃げ出しました。

 この時安倍宗任率いる援軍8百が馳せ参じましたが、時すでに遅く待ち構えていた源氏軍に散々に撃ち破られます。形勢は完全に逆転しました。次回、安倍一族最後の戦い厨川柵攻防戦を記します。