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平安奥羽の戦乱Ⅱ 鬼切部の戦い

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 平安時代奥羽地方を揺るがした前九年の役の原因は諸説あります。一つは奥六郡の郡司として強大な勢力に成長した安倍氏を危険視し陸奥藤原登任(なりとう)が故意に仕掛けたという説。あるいは奥六郡の金を独占しようとした登任が邪魔になった安倍氏を挑発し滅ぼそうとしたという説。どちらにしろ安倍氏は奥六郡の実質的支配者として朝廷を軽んじ貢租を怠り陸奥国府の権威に対する挑戦者となっていたのは事実でしょう。

 この時安倍氏を率いていたのは頼良(不明~1057年)という人物でした。ただの文官に過ぎない登任が単独で安倍氏に対抗することは不可能です。そこで彼は現地の豪族で伊具郡の郡司を務める平永衡亘理郡の郡司藤原経清(不明~1062年)に協力を求めるとともに、都に安倍頼良の謀反を訴え秋田城介として新たに平繁成の派遣を要請しました。実は出羽国の軍政官である秋田城介と陸奥国の軍事を司る鎮守府将軍は長らく平和が続いていた為常設されていなかったのです。

 藤原経清、関東は下野国の名門藤原秀郷の後裔で父頼遠の代に下野守と揉め陸奥に下向、亘理郡に定着したのでした。自身も従七位下陸奥権守を務め後には従五位にまで昇進します。陸奥国府に在庁官人として仕え亘理権大夫と称しました。平永衡とは陸奥国府の相役でした。ただ、陸奥国府にとって都合が悪かったのは経清と永衡は安倍頼良の娘婿だったのです。安倍氏が強大な力を誇ったのは、こういった国府の有力者ですら婚姻や金銭で懐柔していたことも原因の一つでした。

 本来、秋田城介の任地は出羽国陸奥国は担当外です。登任は新たに秋田城介に任命された平繁成が任地に向かう途中、安倍氏の反乱に遭遇し陸奥国府と協力して戦ったという体裁で連合軍を結成します。1051年繁成、登任の連合軍は安倍氏を討つため北上しました。国府軍が現在の宮城県大崎市の鬼切部に達したとき、安倍頼良の長男貞任(さだとう)率いる安倍軍の奇襲を受けます。この時国府軍は数千を数えたそうですが、油断していた為奇襲を受け浮足立ち大損害を出しました。さらに実質的総司令官秋田城介平繁成まで捕虜になるという醜態をさらします。

 戦の始まる前、繁成は軍議の席で慎重論を述べた平永衡安倍頼良の娘婿だという事で信用せず罵倒、永衡を安倍陣営に奔らせるという失策すら犯していました。結局登任も繁成も軍を率いる器量がなかったという事でしょう。さすがに安倍軍も秋田城介平繁成を殺害する愚挙は犯さず捕虜交換で返します。そのまま睨み合いが続きました。事実上この戦いが前九年の役の発端となります。

 国府軍が俘囚軍に大敗したという報告がもたらされると、朝廷は大騒ぎになりました。このままでは朝廷の威信は地に堕ち全国各地で反乱を誘発しかねないからです。善後策を協議した朝廷は、満を持し登任に代わる陸奥守として武門の名門源頼義を任命しました。源頼義(988年~1075年)は清和源氏嫡流です。始祖六孫王経基から数えると四代目、清和源氏の主流となった河内源氏頼信の嫡男で二代目棟梁でした。朝廷はさらに頼義に鎮守府将軍職を加えました。陸奥の軍事行政の全権を与えるという事です。鬼切部の敗戦の責を受け藤原登任は解任されました。

 陸奥に赴任した源頼義は、国府のある多賀城に入ります。頼義としたら、安倍氏を滅ぼす気満々でしたが間の悪いことに朝廷において後冷泉天皇の祖母上東門院の病気平癒のため大赦令が発せられました。こうなると頼義としても安倍頼良を許さざるを得ません。頼良は莫大な貢物と共に多賀城を訪れ頼義に降伏しました。この際、自分の名前が頼義と同じであることを遠慮し頼時と名を改めます。

 しかし、頼義は安倍頼時を許す気はさらさらありませんでした。いつか機会を得て安倍氏側を蜂起させ、それを理由に討つつもりだったのです。頼義の挑発はどのように行われるのでしょうか?次回、再び蜂起した安倍氏と本格的戦争に突入した奥六郡の情勢について語ります。