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平安奥羽の戦乱Ⅰ 11世紀の奥羽

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 1993年NHKで放送された大河ドラマ『炎(ほむら)立つ』。藤原経清を主人公に前九年の役を描く第一部、その子藤原清衡を主人公に後三年の役を描く第二部、奥州藤原氏最後の当主泰衡を主人公に奥州藤原氏滅亡を描く第三部の三部構成で私の中では五本の指に入る大河ドラマの傑作です。

 物語の舞台は11世紀の奥羽地方。東北地方は現在の秋田県山形県である出羽国、現在の青森・岩手・宮城・福島を領域とする陸奥国に分かれていました。余りも広大な地域で、戦国末期から江戸初期の数字で出羽国80万石余、陸奥に至っては167万石もあったそうです。ただ当時の農業技術で寒冷の北部では稲作が難しいため貧しく、豊かな地方は南部に限られました。出羽国で言えば現在の山形県に当たる羽前が50万石、陸奥国では福島県に当たる磐城・岩代で90万石、宮城県に当たる陸前で50万石でした。

 これは戦国大名たちが農地開墾、干拓で農業生産力向上に努力した結果であって、平安時代はその半分も生産量があれば良い方でした。ただ良質の馬の産地で豊富な金山もあったことから奥羽地方は別の意味で豊かな地方だったとも言えます。

 古代の関東から東北地方にかけて、蝦夷(えぞ、えみし、毛人とも書く)と呼ばれる人々が住んでいました。一昔前は蝦夷は現在のアイヌ人だと言われましたが、最近の研究では縄文人の末裔で大和朝廷の支配に属さない人々、大部分は大和朝廷に服し日本人となり、一部が北海道に逃れてアイヌになったとも、もともと蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は別民族であり、蝦夷(えぞ)がアイヌ人となったという説もあります。私は蝦夷(えみし)=原日本人説を採りたいですね。

 古くは7世紀阿倍比羅夫による出羽征服に始まり、朝廷は豊かな東北地方を手に入れるべく遠征と現地住民の懐柔、農民の入植、土地開発を通じて東北の支配を進めます。平安時代中期から末期にかかろうとする11世紀には、出羽国に関してはほぼ全域、陸奥国でも奥六郡と言われる北上川流域の北上盆地まで朝廷の支配が及びました。蝦夷のうち、朝廷の支配に服したものは俘囚と呼ばれますが彼らに対する差別は残ります。

 このような征服に対し蝦夷達も反抗し8世紀末から9世紀初頭にかけての阿弖流為(あてるい)の乱など激しい抵抗運動が起こりました。ちなみに蝦夷というのは朝廷側がつけた蔑称で、彼ら自身は日高見国と称したとも言われます。北上川は日高見川が語源だという説もあるくらいです。現在の北上盆地、北から岩手郡紫波郡稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡は奥六郡と呼ばれました。奥羽山脈を隔てて西側、出羽国の山本郡、平鹿郡雄勝郡は仙北三郡と呼ばれます。どちらも江戸初期の数値で石高12万石前後。ただ良馬と金山で経済的には豊かな地方でした。

 朝廷は出羽国支配のために現在の秋田市に当たるところに秋田城を設け出羽守と共に秋田城介という軍政官を置きます。一方、陸奥国に関しては多賀城陸奥守、胆沢城に鎮守府将軍を置いて支配しました。とはいえ、辺境の奥六郡に目が行き届くわけでもなく、朝廷の年貢徴収を代行することで力をつけた豪族安倍氏が台頭します。同じように仙北三郡では清原氏が力を持ちました。どちらも朝廷からは俘囚長だと見做されましたが出羽清原氏は在庁官人で中央貴族清原氏の末裔を称し、安倍氏も長脛彦の兄で大和朝廷の迫害を逃れ東北に至った安日彦(あびひこ)の子孫を名乗ります。

 当時は城と言っても、官衙とそれを囲む柵くらいで防御力は大したことありませんでした。ただ朝廷は軍事に特化した柵と呼ばれる防御施設を各地に設け支配を固めます。陸奥鎮守府将軍が常駐した胆沢城は防御力に重きを置いた作りだったとも伝えられます。

 11世紀、陸奥国藤原南家という主流から外れた下級貴族藤原登任(なりとう)という人物が陸奥守として赴任してきたことから事態が動き始めます。次回、登任と安倍頼良との対決をきっかけとした前九年の役の勃発を描きます。