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徳川家の功臣大久保忠隣の子孫はどうなったか?

 最近マニアックな記事が続いて申し訳ありません。たまたまYOUTUBENHK大河ドラマ葵徳川三代』の切り取り動画を見ていたんですよ。関ヶ原で遅参した秀忠(西田敏行)に怒り「江戸へ追い返せ。顔も見たくないわ」と激怒する徳川家康津川雅彦)。秀忠の軍監として付き従った三人の重臣本多正信神山繁)、榊原康政(清水綋治)、大久保忠隣(石田太郎)はなんとか取りなそうと奔走します。

 三人それぞれの奔走で親子対面にこぎつけ、秀忠の必死の謝罪でようやく家康は遅参を許します。その際、安堵の表情を見せる三人の重臣はセリフが無い中役者の演技力だけで魅せた名場面でした。

 大久保忠隣は、凡庸な秀忠を補佐し一度は世継ぎから見限ろうとした家康を必死に説得し思いとどまらせた忠臣でした。実際はどうか知りませんが、ジェームス三木さんの脚本を高く評価しているのでジェームス三木さんの解釈通り進めます。

 ドラマでも描かれますが、そんな忠隣も幕府内の権力争いに巻き込まれ謀反の濡れ衣を着せられ相模小田原藩十万石を改易させられます。忠隣は一切弁明せず従容と改易を受け入れ隠居して亡くなりました。その後の大久保家が気になったのです。

 なんといっても大久保家は忠隣の父忠世の時代から徳川家忠節一筋で仕えた家。本多忠勝の子孫がお家騒動とか色々やらかしても、最後は忠勝の功績を考え三河岡崎藩五万石として復活し幕末を迎えているので、大久保家にもそれなりの配慮があっただろうと調べたんです。

 忠隣改易(1614年1月)の時、嫡男忠常はすでに亡くなっていました。1611年10月10日、享年32歳です。忠常は家康の養女となった奥平信昌の娘(信昌の正室が家康の娘亀姫)を正室に娶っていたので忠隣とは別に武蔵国騎西藩二万石を拝領していました。忠隣改易事件の時忠常の息子忠職(忠隣の孫)が藩主でしたが、別家という事で騎西城蟄居という軽い処分で済みます。忠隣改易に連座し多くの大久保一族が処分されたのに、これは幸運でした。

 1625年(寛永二年)には、蟄居処分も解かれました。1626年には三万石加増で美濃加納藩五万石に転封となります。これは忠職が外祖母で家康の娘亀姫の血を引いていたことと大久保一族の長年の功績を考えての事でしょう。政敵であった本多正純(葵では渡辺いっけいさんが演じていましたな)が宇都宮釣り天井事件(1622年)で失脚していたのもあったのでしょう。

 1639年にはさらに二万石加増で播磨明石藩七万石、1649年にはまた加増で肥前唐津藩八万三千石となりました。前藩主寺沢堅高の悪政を正し藩政改革で善政を布いたそうです。1670年死去、享年67歳。

 忠職には3人の息子が早世し後継ぎがいなかったので従弟の忠朝(忠隣三男教隆の子)を養子に迎え二代藩主としました。忠朝は1677年老中に就任、1686年祖父忠隣の領地だった相模小田原11万3千石に復帰します。小田原復帰が大久保一族の悲願だったかどうかは分かりませんが、以後大久保家は7万3千石に減封されるものの幕末まで小田原藩主として続きました。

 江戸幕府初期、あれだけ権勢を誇った本多正純が失脚し配流先の出羽国横手で寂しく死んだのと比べると、大久保家は見事復活できたのだから忠隣も草葉の陰で満足していることでしょう。