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戦国最上戦記Ⅴ  山形五十七万石    終章

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 秀吉の奥州仕置は、奥羽の諸大名に大きな影響を与えました。とくに伊達政宗葛西大崎一揆扇動の疑いをもたれ(実際扇動していましたが…)、なんとか疑いは晴らしたものの本領伊達・信夫・置賜三郡(他に刈田、田村、安達で計6郡)を没収され旧葛西・大崎領(13郡)に移されました。伊具・名取・亘理など陸前にあった諸郡はそのまま残され移封前の72万石から58万石、差し引き7郡加増とはいえ実質は減俸、さらに葛西大崎領は一揆で荒廃し回復にはかなりの時間を要すると考えられていました。

 代わって伊達の旧領に封じられたのは蒲生氏郷。当初は会津盆地のみの40万石でしたが後に90万石にまで加増されます。(おそらく置賜地方もこの時の加増分)これは関東の徳川家康を牽制するための人事でしたが、秀郷自身は「これで天下への望みがなくなった」と嘆いたと伝えられます。

 天下を統一すると秀吉は大陸に野望を抱き天正二十年(1592年)朝鮮出兵を行いました。最上義光もこれに従い手勢五百を率いて肥前名護屋の滞在します。幸いにして義光の任務は兵糧輸送で大きな損害を受けずに済みました。

 しかし悲劇は別のところで巻き起こります。文禄四年(1595年)いわゆる秀次事件が起こったのです。実子のいなかった秀吉は甥の秀次を後継者と定め関白の地位も譲り聚楽第を与えていました。ところが文禄二年(1593年)秀吉と側室淀殿との間に秀頼が生まれます。実子に跡を継がせたい秀吉は秀次が邪魔になり露骨に疎むようになりました。自分の立場が悪化した秀次は自暴自棄になり家臣や領民を手討ちにするなど殺生関白と陰口をたたかれるようになります。秀吉はもっけの幸いとばかりに秀次の罪を問い高野山に追放、自害させました。秀吉の怒りは収まらず秀次の妻妾、息子、娘、家臣の多くも三条河原に集められ処刑されるのです。

 この中には義光の愛娘、駒姫もいました。義光は秀次から催促されても側室に差し出すことを拒み続け事件の数日前にやっと京都に到着したばかりでした。実質的には側室にさえなっておらず無関係といえます。義光は駒姫を救うため八方手を尽くしましたが許されず15歳になったばかりの愛娘は処刑されてしまいました。義光夫妻は悲報を受け数日間食事が喉を通らなかったそうです。義光が秀吉を見限った瞬間でした。秀吉は秀次党の粛清を図り義光にも嫌疑がかかります。これを救ったのはまたしても徳川家康でした。

 伊達氏の旧領を継承した蒲生氏郷は文禄四年(1595年)40歳の若さで急死しており、その跡には上杉景勝が入りました。上杉家は、会津盆地、福島中通り置賜、庄内、佐渡など実に120万石を領します。とくに置賜郡米沢には家老の直江兼続が30万石で入部しました。

 慶長三年(1598年)八月十八日、一代の英傑豊臣秀吉が亡くなります。享年61歳。朝鮮出兵は何の得るところもなく秀吉の死で沙汰止みになりました。諸大名は次の天下人が誰になるか一斉に動き始めます。義光は、たとえどんなに不利な条件になっても家康に味方するつもりでした。慶長五年(1600年)、家康は上杉景勝が勝手に兵を集め城を修築していることを咎め上杉征伐を行います。しかしこれは上方を留守にして石田三成に兵を挙げさせるための罠で、下野小山で滞陣した遠征軍は三成挙兵の報を受けると矛先を西に転じました。

 といっても背後を上杉景勝に衝かれるのは不味いので、伊達政宗最上義光らに命じて牽制する役に就かせます。最初に動き出したのは伊達政宗でした。家康には決して攻勢に出るなと釘を刺されていたのですが、旧領回復の絶好の機会とばかり上杉領の白石城に攻撃を始めたのです。ところが上杉軍は意外と手ごわく、簡単に領土奪取できないとわかると勝手に上杉と和議を結び兵を引きました。これは後々問題になる行為でしたが、東軍が勝ったので不問にされます。ただしこれによって家康が政宗に旧領回復を約束した百万石のお墨付きもパーになりました。

 石田三成と結託し、徳川軍をの背後を突くためにはさらに背後にいる孤立した東軍の有力武将最上義光を叩かなければなりません。上杉軍は家老直江兼続を大将とする二万の軍勢で最上領になだれ込みました。一方最上軍は由利衆など援軍を加えても七千。庄内戦争以来の宿縁の相手です。当時の恨みを覚えている最上軍の将兵も多かったと思います。鎧袖一触と舐めていた上杉軍は、最上氏の本拠山形城を真近に臨む要衝長谷堂城に攻めかかりました。しかし最上軍の抵抗は激しく難攻不落を誇る長谷堂城は落ちる気配を見せません。そんな中慶長五年九月、上方の関ヶ原で家康率いる東軍が大勝利したとの報告が入りました。

 直江兼続は、これ以上の戦は無意味とばかり撤退の準備を進めます。義光は先頭に立って撤退する上杉軍を追撃しますが、直江兼続の見事な指揮で上杉軍はほぼ無傷で脱出に成功しました。怒りの収まらない義光は、上杉領になっていた庄内地方に攻め込み敗戦で逃げ腰になっている上杉の守備軍を撃破、短期間でほぼ庄内地方を平定します。

 関ヶ原の合戦徳川家康を天下人に押し上げた戦いでした。石田三成ら首謀者が処刑され、上杉家は置賜、伊達、信夫郡以外を没収、米沢30万石に転落します。東軍でも動きの怪しかった伊達政宗はわずか二万石の加増にとどまりました。そんな中、家康は上杉軍をほぼ単身で釘づけにした最上義光の働きを大きく評価、本領村山、最上郡のほかに庄内地方の田川、飽海郡を加増しました。義光は出羽秋田に入部した佐竹氏と雄勝郡・由利郡を交換し村山・最上・田川・飽海・由利五郡五十七万石の大大名になったのです。


 念願の庄内地方を手に入れ生涯の目的を果たした義光でしたが、晩年は不幸でした。居城山形城を修築し壮大な城下町を整備するも、後継ぎと期待していた長男義康と不和を生じます。徳川家に小姓として出仕し関係の深い次男家親を推す家中の勢力から讒言を受けるのです。愛娘駒姫の不幸などで人を信じられなくなっていた義光は、この讒言をまんまと信じ義康を遠ざけました。その直後義康は何者かの手によって暗殺されます。義光の命令だったとも言われますが真相は分かりません。義康は温厚篤実な性格で家中の信望も厚かったと伝えられます。もし彼が最上家の後を継ぎ、弟の家親には何万石か分けて独立させていれば、あるいは最上家は改易にならなかったかもしれません。

 のちに義康の死を激しく後悔した義光は、山形の義光山常念寺を菩提寺に定め弔いました。その手厚さは駒姫のものと同様だったそうです。慶長十九年(1614年)一月、江戸の二代将軍秀忠、駿府の大御所家康に相次いで拝謁した義光は山形に帰還して間もなく病気を発し波乱の生涯を閉じます。享年70歳。

 山形五十七万石は次男家親が継ぎました。ところが家親も元和三年(1617年)急死、後を継いだ子の義俊(当時13歳)は義光時代から尾を引く旧義康派と家親派との争いを纏め切れず家中の争いは江戸幕府までもたらされます。幕府は、他の外様大名と違い徳川家に早くから従っていた最上家を何とか存続させようと調停しますが、両派がたがいに相手を幕府に讒言している現状を見てついに堪忍袋の緒を切らせ元和八年(1622年)改易しました。これを最上騒動と呼びます。

 義俊は近江大森に一万石で入部し寛永八年(1631年)27歳で夭折。嫡男義智が家督を継ぎますが五千石に減知、最上家は大名の地位から転落し旗本交代寄合となって明治維新を迎えました。大名が存続することの難しさを実感させる最上家の盛衰ですね。しかし改易された他の外様大名と違い最上家に対する幕府の愛情を感じるのは私だけでしょうか?その意味では、いち早く家康と誼を通じた最上義光の遺徳と言えなくもありません。



                              (完)