ただ秀吉も信直の境遇に哀れを催し、小田原に参陣しなかったために改易となった和賀、稗貫氏の旧領和賀郡、稗貫郡を加増し埋め合わせします。ただ津軽郡は江戸期には実高30万石にまで達するほど発展性があったのに対し早くから開発され発展の余地のない和賀郡、稗貫郡(合計2万5千石)ではあまりにも差がありすぎました。
それでも信直は、不満を抑え秀吉に仕えます。一方、葛西大崎一揆を裏で操っていたとして懲罰人事で葛西大崎領を賜った伊達政宗とは隣国となりました。伊達領の北限が胆沢郡、江刺郡、気仙郡でした。当時の南部家の石高10万石。一方伊達家は58万石。胆沢、江刺、気仙三郡だけで9万5千石もありました。
時は流れ1600年関ヶ原合戦の年。南部氏も伊達氏も時世の流れを読み家康の東軍に味方します。南部家では1599年信直が病死し嫡男利直が後を継いでいました。利直は父信直の遺言もあり家康に味方し最上義光が上杉景勝の家老直江兼続の軍勢に攻撃されると援軍として最上領に出陣します。
一方、天下への野心を失わない伊達政宗は怪しい動きをしました。緒戦こそ上杉領の白石城を攻略するも勝手に上杉と和睦し兵を引きます。家康は政宗に陣を固く守って軽挙妄動するなと言い含めていましたが、政宗は別の意図で動きました。
上杉勢に攻められて滅亡寸前の最上家から火の出るような援軍の催促も言を左右にして応じず、申し訳程度の援軍は送ったものの遠巻きにして積極的動きはしませんでした。政宗は、家康から約束された百万石のお墨付きを信用せず既成事実化することを虎視眈々と狙っていたのです。
政宗は、自領内に匿っていた和賀忠親を秘かに呼び出します。政宗は援軍を授け南部領になっていた和賀、稗貫両郡に忠親を使って一揆を起こさせたのです。これを岩崎一揆と呼びます。旧領奪回に燃える忠親は、手勢を率い花巻城に襲い掛かりました。忠親が巧妙だったのは、直接花巻城に向かわず郡内各地で小規模な蜂起を繰り返させたことです。花巻城からは軍勢が次々と反乱鎮圧のために出動し手薄となります。
和賀勢はそれを確認すると一気に花巻城に攻めかかりました。花巻城を守るのは南部家の宿老北信愛(のぶちか)。当時なんと77歳。攻める和賀勢も老骨と舐めていた節があります。花巻城に残った兵力はこの時わずか百騎にも満たなかったそうです。一方和賀勢は数千にも膨れ上がっていました。
多勢に無勢、南部勢は本丸に追い込まれます。絶望的な状況の中、信愛は女中に命じ数挺の空鉄砲を次々と撃たせました。これが二十挺にも聞こえ敵勢は警戒します。信愛の家臣熊谷藤四郎は不審に思って
「空鉄砲は弾の無駄ではありますまいか?敵勢に撃ち込んでこそ意味があると思いまするが…」
と尋ねました。
信愛は、
「分かっとらんな。相手に応じて手段は変えるものだ。敵勢を見るに地下の者が大半。和賀に勢いがあるから付き従っているだけ。こういう輩は命を懸けてまでは攻め込んでこんよ。
それに少数で多数の敵を防ぐには、決して敵兵を殺してはならん。逆上して遮二無二突っ込んでくるからだ。そうなると落城は必至。空鉄砲で時間を稼いでいればそのうち援軍が来る。それまでの辛抱じゃ」
と答えました。
まもなく、急報を聞いた近くの南部勢が到着、背後から攻めかかったため一揆勢は一気に崩れます。信愛はこの機会を逃さず、城を打って出て一揆勢を攻め立てました。年老いたりとはいえ、南部家にその人ありと言われた名将北信愛です。和賀忠親は南部領から叩き出され、伊達家に逃げ込みました。
山形救援から戻った南部利直は、一揆の背後に味方であるはずの伊達政宗が居ることを知り激怒します。一揆勢に紛れ込んでいた伊達家臣の首を家康に送り、政宗の背信行為を訴えました。関ヶ原で勝利した家康もこれを聞いて怒りました。糾弾のため政宗に出頭を命じます。政宗は和賀忠親に因果を含め自害させ、その首を持参しますが、小細工は家康には通用しませんでした。
家康は、和賀一揆加担を理由に政宗の百万石のお墨付きを反故にします。わずか二万石の加増に終わったのは政宗の自業自得でした。政宗は野心のために葛西大崎一揆を扇動して先祖伝来の伊達郡、信夫郡を失い居城のあった出羽置賜郡も没収されました。これで懲りるかと思いきや、関ヶ原でも同じ間違いをやらかすのですから救いようがありません。
関ヶ原で要らないことをしなければ、伊達・信夫郡くらいは返してもらえたかもしれないのです。一方、南部家は北信愛の智謀によって領土を守り抜きました。津軽為信謀反以降良いことのない南部家ですが、最後に面目を施したことになります。信直も草葉の陰で喜んでいるはず。