鳳山雑記帳はてなブログ

立花鳳山と申します。ヤフーブログが終了しましたので、こちらで開設しました。宜しくお願いします。

戦国最上戦記外伝  戦国奥羽の関連人物小史

戦国最上戦記完結の余韻がなかなか冷めやらない私ですが、本編で紹介しきれなかった最上・伊達関係の関連人物について語りたいと思います。



「木村吉清」

 葛西大崎一揆の扇動者が伊達政宗なら引き起こした張本人がこの人。NHK大河「独眼竜政宗」の牟田悌三さんのイメージが強すぎますが(苦笑)、もとは荒木村重の家臣。のち明智光秀に仕え山崎の合戦の後丹波亀山城受け渡しの手際が良かったのを秀吉に認められて五千石で召抱えられます。太閤検地の奉行、奥州仕置での反乱鎮圧などで功を挙げ一躍旧葛西・大崎領30万石に大抜擢。ところが強引な検地や旧葛西・大崎家臣を召抱えず外から採用した大量の浪人たちが領内で乱暴狼藉の限りを働いたので地侍や農民たちが激怒、一揆を招きます。

 30万石の大大名になって張り切りすぎたんでしょうな。所詮小利口な官僚タイプで領内を纏め切る政治家・武将ではなかったという事でしょう。元敵地を占領するのですからそれなりの配慮が必要です。最初は検地も控え、取り潰された大名家の旧臣を召抱えるなど細心の注意を払うべきでした。他の有能な武将はみなやってます。

 結局一揆勃発の責任を取らされて改易、蒲生氏郷の客将になりました。その後1598年豊後で一万五千石与えられて大名に復帰しますがその年に死去。同じく葛西大崎一揆で醜態をさらした息子清久は関ヶ原で西軍に属し改易、大坂の陣に参戦して討死したそうです。




 この人も独眼竜政宗の村田雄浩さんのイメージしかありません(笑)。ちなみにお父さんの鬼庭左月斎良直はいかりや長介さんでしたね♪もともと鬼庭と名乗っていたんですが、文禄の役の際秀吉に「庭に鬼がいるのは縁起が悪い」と茂庭の姓を与えられました。御本人にとっては有難迷惑だったと想像しますが、このために後世の資料では鬼庭が茂庭に改められていて調べる私なども困っています。

 父は勇将、本人は手堅い能臣というイメージがありますが、実は一度伊達家を出奔しています。巷では伊達成実片倉小十郎景綱と並び伊達三傑といわれる人ですが、秀吉は有能な彼を気に入りヘッドハンティングしようとします。ある時秀吉の碁の相手をしていた綱元は賭け碁に勝って香の前(側室、一応人間です)を賜りました。

 伊達政宗はこれを疑い、強引に綱元を隠居させようとします。香の前を差し出すよう命じたら綱元が拒否したのが原因の一つとか(ただしこの話は怪しい)。茂庭家の本領五千石は息子良綱に安堵されたものの綱元本人は隠居領百石のみ。さらに隠居領以外の収入を得たら五千石も没収するという過酷なもの。激怒した綱元は伊達家を出奔します。伊達成実とか国分盛重とか血の気の多い人なら分かるんですが、温厚なイメージの綱元が出奔するんですからこれは大変です。

 有能な綱元は引く手あまたで家康からも召抱えられそうになりますが、政宗の奉公構(他家への召抱えを許さない刑罰)によって破談。気の毒に思った家康から秘かに援助されたそうです。慶長二年(1597年)赦免されて伊達家に帰参しますが、この時の条件が香の前を政宗に差し出すこと(この条件も怪しいですが…)。関ヶ原大坂の陣と功をあげ寛永十七年(1640年)91歳で大往生を遂げました。

 それにしても香の前の話が実話とすると、政宗ってDQNとしか…ファンの方ごめんなさいね~♪



「義姫(お東の方、保春院)」

 すみません、この人も独眼竜政宗岩下志麻さんです(爆)。最上義光の妹で伊達輝宗正室政宗の母。ドラマだと気の強いイメージですが、かなり史実に近かったろうと思います。本編でも触れましたが婚家と実家の戦争を止めるほどですからね(苦笑)。

 ただ片目になった政宗を嫌い、次男の小次郎を溺愛、政宗を毒殺しようとしたドラマのストーリーはやりすぎ。まあきかん坊の政宗が可愛げなかったのは容易に想像できますが…。戦国時代の政略結婚では実家を最優先にするのは当たり前。義姫が首謀したと言われる毒殺未遂事件で政宗の秀吉拝謁が遅れたという話は否定的な見解もあります。ただ跡目争いは現実で、政宗実弟小次郎を斬殺しています。

 義姫は、息子小次郎を殺されたこともあり伊達家を出奔、実家の最上家に帰っています。政宗は母に気を使っていたらしく、朝鮮の陣の最中にも手紙や贈り物をしています。書状で母に「伯父(義姫の兄)義光から昔のことでいろいろ叱られた」とこぼしていますが、やはり一度生じた遺恨はなかなか解消しなかったのでしょう。

 関ヶ原の時にも、伊達家の援軍は現実の敵である上杉軍と潜在的な敵である最上軍が争って疲弊するのを待って動くべきだという声も上がったそうですし(言いだしっぺは片倉小十郎西郷輝彦、悪い奴だwww)。さすがにこれは政宗の「母上が山形城にいらっしゃるんだぞ」という一言で沙汰やみになったそうですが、事実伊達の援軍は傍観するのみで全く動いていません。案外、政宗自身母親を見殺しにする気持ちがあったのかも?母上云々の発言は自分の本心をごまかすため、あるいは世間体を考えてだという穿った見方もできます。

 晩年最上家改易で行き場所を失った義姫を政宗は引き取ります。その後仙台にて死去。波乱万丈の生涯でした。



「山野辺義忠」

 あまりに多くの人物を紹介すると一話では終わらないのでこの人で終わりにします。山野辺って時代劇ファンの方、聞いたことないですか?そう、水戸黄門に出てくる水戸家の家老、黄門さまから「じい」と呼ばれている人ですよね。実は山野辺家は最上一族なんです。義忠は最上義光の四男。幼少期徳川家に人質にだされ縁ができたんでしょうな。

 兄家親(山形藩二代目)が死去し、甥の義俊が後を継ぐと若い(13歳)の義俊ではなく義忠こそ藩主にふさわしいという一部の家臣の声が強くなります。義俊がこれに怒り幕府に「父家親の死は義忠擁立派による毒殺だった」と訴え出たことにより最上騒動が勃発しました。その後幕府の調査で家親の死因は自然死だったと判定されますが、藩主派と義忠派の争いは収まらず結局最上家は改易。

 義忠本人は積極的に動いたわけではなくただ擁立されただけですが、義忠も責任を取らされて備前岡山に流罪。12年間も幽閉されたそうです。寛永十年(1633年)三代将軍家光の赦免で水戸徳川家に預けられます。義忠は一万石を与えられ水戸藩家老になりました。寛文四年(1664年)死去、享年77歳。義光の子では最長寿でした。

 ちなみに水戸黄門で「じい」と呼ばれる家老は、義忠の息子義堅。山野辺兵庫の名前の方が有名です。