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有屋峠の合戦

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 ほとんどの方は知らないと思います。1586年出羽国最上郡と雄勝郡の境あたりで起こった最上義光と小野寺義道との間に戦われた合戦です。現在の地名で言うと山形県金山町大字有屋あたりから、秋田県側の湯沢市秋ノ宮あたりにかけて。ただし峠がどこにあるかは分かりませんでした。おそらく金山川をさかのぼって、湯沢市の秋ノ宮郵便局を結ぶ稜線上のどこかだと思います。

 

 1586年というと、中央ではその前年秀吉による四国攻めが行われ長宗我部元親が降伏しています。奥羽でも伊達輝宗が畠山義継に謀られて横死。1586年は聚楽第建設、九州攻めが年末に開始されました。その前の7月島津勢によって筑前岩屋城陥落、立花宗茂の実父高橋紹雲が壮烈な戦死をしています。12月戸次川の合戦で長宗我部信親が戦死しました。

 

 中央が大きく動く中、出羽でも最上義光、小野寺義道が田舎合戦とはいえ血みどろの戦いを繰り広げます。それが有屋峠合戦です。きっかけは小野寺義道の重臣鮭延秀綱の寝返りでした。秀綱にも言い分があり、最上氏侵略の最前線にあった秀綱は籠城し頑強に抵抗します。ところが義道が援軍を送らなかったため万策尽き最上義光に降伏したのでした。義光も秀綱の武将としての将器を買っていたのでしょう。降将にもかかわらず重用します。感激した秀綱は以後義光のために目覚ましい働きをしました。

 

 面白くないのは義道で、鮭延秀綱の降伏で秀綱が領していた鮭延城(最上郡真室川町)、そこから最上勢が進出して雄勝郡南部が最上領に組み込まれたのです。義道は失地回復の機会を虎視眈々と狙いました。その機会は意外と早くやってきます。最上義光庄内地方の領有権を巡って越後の上杉景勝と対立したのです。強敵上杉氏と戦うため最上勢が主力を庄内地方に集中するはずだと読んだ義道は6千の兵を率いて最上領に雪崩れ込みました。すると、意外にも最上義光は鋭く反応し自ら1万2千の軍で迎え撃ったのです。最上側に情報が漏れていたのかもしれません。

 

 ここで兵力についてですが、最上勢が動員できたのは本領の村山郡、最上郡で24万石ほど。1万石でだいたい300名動員できたと言いますから、多くても6千強。一方小野寺氏は奥州仕置で安堵された本領が5万石程度ですから、こちらは千五百くらい。実数は最上勢6千、小野寺勢千五百くらいが妥当でしょう。規模からいうと完全に田舎合戦です。

 

 戦いの経過もぐだぐだで、峠を巡って小競り合いがあったものの最上側は庄内での情勢が悪化し援軍の必要性が出たこと。小野寺側も、留守を狙った隣国角館城主戸沢盛安の侵略を受け撤兵せざるを得なくなりました。両者痛み分けの形で兵を引いたわけですが、小野寺義道としては裏切った秀綱の鮭延領を奪回できなかったことで戦略的には失敗でした。

 

 この対立は後々まで尾を引き、最初東軍側だった小野寺義道は、最上義光への反感から西軍に転じ家康の怒りを買って改易されます。小野寺義道という人は武力はあっても、政治とか外交の才能は皆無だったのでしょうね。ただ生命力だけはあったようで、石見国島根県西部)に流された義道は現地で80歳まで生きたそうです。タイプは違いますが、今川氏真と似たようなイメージがあります。