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戦国最上戦記Ⅲ  最上義光(よしあき)の台頭

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 戦国大名伊達氏の富強は九代大膳大夫政宗出羽国最南端の置賜郡を制圧してからでした。これで本拠の陸奥国伊達郡信夫郡と合わせてざっと30万石になります。この数字がいかに大きいかと言うと、戦国時代最上義光が生涯かけて征服した石高が24万石弱(後に関ヶ原合戦の功績で57万石)、南部氏と津軽氏が争った陸奥北部が全部合わせても20万石くらいだったことでも分かります。伊達氏はさらに現在の宮城県に当たる刈田郡伊具郡(ともに阿武隈川流域)にまで勢力を広げ十四代稙宗(1488年~1565年)の時代にはおそらく50万石から60万石の実力はあったと思います。このくらいの石高だと実に2万弱の動員兵力があります。

 こうなってくると、元南朝方で足利家の敵対勢力、近隣諸国の領土を蚕食する悪党であってもおいそれと幕府が滅ぼせるはずはありません。実際鎌倉公方は何度か遠征軍を送りましたが、その都度撃退され伊達氏の支配体制は微動だにしませんでした。さらに伊達氏は、当面の敵である鎌倉公方とその傘下の奥州探題(大崎氏)、羽州探題(最上氏)に対抗するため直接京の足利将軍家に結び付く方策を採りました。足利将軍家が成立の過程から鎌倉公方家と潜在的な敵対関係にあったことを伊達氏がうまく利用したのです。

 文明十五年(1483年)上洛を果たした十二代成宗が将軍義政や正室日野富子に贈った莫大な贈り物は当時の記録に残されるほど破格なものだったと伝えられます。伊達氏は京都扶持衆という将軍家直臣となりさらには陸奥守護という足利幕府体制ではありえないほどの優遇を受けました。

 最上氏も九代義定(1492年?~1520年)が長年の宿敵寒河江氏を永正元年(1504年)何度かの合戦の末実質的傘下に収めたものの永正十一年(1514年)には伊達稙宗の侵略を受け長谷堂城の戦いで敗北、稙宗の妹を義定の正室に迎えさせられ実質的な伊達氏の支配下に置かれました。最上氏の苦悩はここから始まります。稙宗は強大な軍事力を背景に最上氏、大崎氏ら近隣の諸大名に婚姻を押し付け支配地を広げました。

 伊達稙宗が嫡男晴宗と争った天文の乱(1542年~1548年)には最上氏も巻き込まれ大きな被害を受けます。天文の乱は最終的に晴宗が勝ちますが、戦乱で荒廃した伊達郡から本拠を出羽国置賜郡に移し米沢城を支配の拠点にしました。これで最上氏への圧力は倍加します。米沢は晴宗、輝宗、政宗(独眼竜)と伊達氏三代の居城となりました。

 最上氏十一代義光(1546年~1614年)が家督を継ぐときも伊達輝宗(1544年~1585年)の介入を受けます。伊達氏からの独立を画策していた義光を嫌い、父最上義守との不和に付け込み義守救援と称して軍勢を派遣したのです。血みどろの戦いの末これを撃退したものの義光は妹義姫を輝宗の正室に差し出さざるを得なくなり伊達氏への従属関係は続きました。義光の伊達氏に対する恨みは生涯消えることはありませんでした。大河ドラマの影響で最上義光が悪、伊達輝宗が善というイメージがありますが、史実を見るとどちらが悪いのか一目瞭然です。輝宗の正室になった義姫は後に有名な独眼竜政宗を産みます。

 伊達氏の矛先が、会津盆地の蘆名(芦名)氏や陸前の大崎氏へ向けられたことが義光には幸いしました。義光は北や西に領土拡大を図ります。伊達氏と結び宗家と対立する天童氏ら一門衆との戦いに四面楚歌になりながらも打ち勝つと庄内平野大宝寺氏、仙北(横手盆地)の小野寺氏を攻めました。義光も戦国大名、相当あくどい調略を使ったようです。小野寺氏の重臣鮭延秀綱を寝返らせたり、大宝寺氏の重臣東禅寺義長を内応させて大宝寺義氏を尾浦城に攻め滅ぼすなど着々と侵略を進めます。

 最上義光が義氏の後を継いだ弟の大宝寺義興を討って念願の庄内平野を手中に収めたのは天正十五年(1587年)のことです。ところが庄内大宝寺氏は関東管領山内上杉氏の同族越後上杉氏に属し出羽と言うより越後との結びつきが強い大名でした。長尾景虎関東管領上杉憲政名跡を譲られ上杉謙信となった後もこの関係は続きます。大宝寺義興は上杉家の重臣本庄繁長の息子義勝を養子にしていたため、上杉景勝は義勝を大宝寺氏の正式な後継者と考え、庄内進出の大義名分にしようと考えました。

 天正十六年(1588年)伊達政宗が大崎義隆を攻撃すると、同族であり義隆の妹婿でもあった義光は援軍五千を率い伊達軍と戦います。義光が伊達氏との戦いで身動きが取れないと睨んだ上杉景勝は本庄繁長、大宝寺義勝父子に庄内侵攻を命じました。最上領となって日が浅い庄内地方の諸将はかつての旧主大宝寺義勝が上杉軍と共に来ると次々と寝返ります。義光は伊達氏との戦いで身動きが取れないので、最上方は東禅寺義長らが軍勢を率い天正十六年八月尾浦城に近い十五里ヶ原で迎え撃ちました。

 戦いは当初互角だったそうですが、総大将の東禅寺義長が戦死すると形勢は一気に上杉軍に有利になり最上方は大敗、次いで朝日山城の戦いでも敗れた最上方は庄内地方を失います。この合戦は豊臣秀吉の惣無事令(1585年)違反でしたが、上杉家と豊臣家の関係から不問にされ庄内地方は上杉方の大宝寺義勝のものとなりました。煮え湯を飲まされた義光は、以後徳川家康と急接近するようになります。

 奥州の地にも豊臣中央政権の影響が及び始めていました。次回、豊臣政権に組み込まれた最上義光の苦悩を描きます。