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戦国最上戦記Ⅳ  中央政権と最上氏

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                              ※ 最上義光

 話は少し遡ります。父稙宗を隠居に追い込み天文の乱に勝利した伊達晴宗は、本拠を出羽国置賜郡米沢に移し残りの生涯を戦乱で荒れ果てた領国の再建に努めました。しかし伊達氏の基本戦略である拡大路線は引き継ぎ、長男親隆を岩城氏に、三男政景を留守氏、四男昭光を石川氏、五男盛重を国分(こくぶん)氏など有力豪族に養子に出すなど平和的手段で領土を広げます。

 特に政景の入った留守家と盛重が入った国分家は、大崎氏と接する要地を占め、将来の大崎攻めを見越した布石でした。戦国大名伊達氏の覇権を確立したのは伊達晴宗だったと言っても良いでしょう。ところが跡を継いだ息子の輝宗(次男、1544年~1585年)は慎重な父とは似ても似つかない粗忽者でした。といっても早くから織田信長に誼を通じた外交の才など丸っきりの愚か者というわけではなかったのですが。輝宗の性格を象徴する事件が起こります。隣国畠山義継を圧迫し所領を大幅に削る過酷な処分を言い渡した輝宗は、宮森城に滞在していた時処分軽減を願い出て来た義継に、逆に拉致されるという醜態をさらしました。

 人の感情が読めない性格だったのでしょう。恨みを買う事を覚悟の上なら義継との会見にも細心の注意を払うべきでした。輝宗を拉致した畠山義継一行は本拠の二本松城に戻ろうとして、阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりで父を救うべく追ってきた政宗の一行に追いつかれます。この時輝宗は「父に構わず討て」と叫んだと言われていますが、息子の政宗としては言われずとも鉄砲で父もろとも撃ち殺す気だったと思います。このまま拉致されれば伊達家は畠山家にどこまで譲歩しなければならないか分かりません。当主が敵に拉致されるなど有り得ない醜態でした。伊達家の大名としての面目も丸潰れです。結局政宗は父もろとも畠山義継一党を鉄砲で討ち果たしました。天正十三年(1585年)十月の出来事です。輝宗享年42歳。

 跡を継いだ伊達政宗(十七代、1567年~1636年)は、幼少期天然痘で右目を失明し独眼竜の異名でも有名です。祖父晴宗、父輝宗二代で築き上げられた伊達家の国力を背景に拡大路線を加速させました。政宗は最初標的を会津領主蘆名氏と定め、攻撃を開始します。ところが蘆名氏には関東の雄佐竹義重の子義広が養子に入っており跡を継いでいました。伊達家の蘆名領侵入は、南陸奥で蜂の巣を突いたような騒ぎになり佐竹義重を盟主とする連合軍三万を敵に回すことになります。わずか八千の兵を率いた政宗は、人取橋の合戦で力戦し両軍痛み分けに終わりました。戦いは佐竹氏の本国常陸に敵が侵攻したため突如佐竹軍が撤退。盟主がいなくなったため蘆名氏なども兵を引き、政宗九死に一生を得ました。

 これに懲りた政宗は、蘆名攻めを一時中断しより組みしやすい大崎氏に矛先を向けます。これが天正十六年(1588年)の大崎合戦となるのですが、同族の大崎氏に泣きつかれた最上義光が援軍五千を率いて参戦したことは前回書きました。この時の勢力圏は最上・大崎連合が合わせて50万石弱だったのに対し、伊達家は70万石近い領国を持っていました。伊達氏は、蘆名氏や相馬氏など他にも周囲に敵を抱えていたため全力で大崎攻めをすることはできませんでしたが、それでも最上・大崎方の劣勢は否めませんでした。

 義光は、強大な伊達家に対抗するため大崎・最上・蘆名・佐竹の一大同盟を画策します。これはある程度功を奏し、政宗は米沢城を離れられなくなりました。最上、伊達両軍は関山、二口、笹谷峠などで対峙し小競り合いを続けます。このすきを突いて上杉景勝庄内地方を奪ったのです。対伊達包囲網の矢面に立たされた義光は引くに引けない立場に追い込まれました。一方、政宗も最上に敗れれば背後を蘆名氏、佐竹氏に衝かれ伊達領国が崩壊する危険性を内包していたので立場は同じでした。

 睨み合いを続ける最上、伊達両軍のために一人の女性が立ち上がります。義光の妹、政宗の母である義姫です。この頃はお東の方と呼ばれていました。義姫は両軍の間に輿を乗り付け、「両軍が兵を引かなければここを一歩も動かぬ」と宣言しました。これには義光も政宗も困り果てます。とくに義光は、同盟していた他家への義理もあり武将の面目からも引けなかったのです。義姫は80日も山上で粘ったそうです。根負けした義光、政宗はたがいに兵を引きました。

 こうして最上義光はなんとか滅びずに済んだのですが、行動の自由を得た政宗天正十七年(1589年)磐梯山麓の摺上原蘆名義広を撃破し蘆名氏を滅ぼしたことからまたしても窮地に立たされます。都合120万石という大国に膨れ上がった伊達氏の圧力をまともに受けることとなったのです。この勢いに同族であった大崎氏でさえ伊達氏に屈し、義光は孤立しました。

 義光の危機は思わぬところから救われます。すなわち豊臣秀吉の小田原北条氏攻めです。奥州王となった伊達政宗は関東の北条氏と組んで豊臣政権と対抗しようとします。次の天下人は秀吉だと確信した義光は、秀吉との接近を図りました。といっても庄内地方を奪った上杉景勝は、家老の直江兼続を通じて石田三成増田長盛ら秀吉側近団に取り入っていました。そこで義光は、豊臣政権外様最大の実力者徳川家康に働きかけます。

 家康としても、清和源氏の名門最上氏が誼を通じてくるのは悪い気がしませんでした。将来の天下を秘かに窺う家康は、源氏の氏の長者の座も狙っていたのです。天正十八年(1590年)秀吉の小田原攻めに参陣した義光は、家康のとりなしで本領村山・最上二郡24万石の安堵を得ました。実は義光の参陣は伊達政宗より遅かったのですが、家康の尽力によって事なきを得たのです。このことに感謝した義光は次男の家親を家康の小姓として差し出しました。これは諸大名に先駆けたもので、まだ豊臣秀吉健在の時期では異例中の異例です。

 関東の雄、北条氏を滅ぼした秀吉は奥州仕置を行いました。厳しい検地に反対した一揆が各地で巻き起こります。葛西大崎一揆を扇動した伊達政宗のエピソードは有名ですね。最上氏の隣国でも奥州仕置に反対する一揆が続発しました。庄内地方ではせっかく領主に復帰した大宝寺義勝が一揆を扇動したかどで改易、大和に流罪(のちに上杉家預かり)となります。仙北でも検地反対一揆が起き、出兵した義光は恩賞として雄勝郡を得ました。仙北の領主小野寺義道は仙北一揆を防げなかった罪で領地の三分の一を没収されました。

 伊達政宗もまた本領の置賜、伊達、信夫三郡を没収され旧葛西・大崎領に追いやられます。義光は豊臣政権に細心の注意を払って仕えました。三男義親を豊臣家に人質として差し出したほか、当時秀吉の後継者と目されていた豊臣秀次に愛娘の駒姫を側室として差し出すなど涙ぐましい努力を続けます。駒姫の件は、九戸政実の乱平定の途中山形城に立ち寄った秀次が、駒姫のあまりの美しさに心を奪われ側室として差し出すよう義光に執拗に迫ったのだとも云われています。

 駒姫は、後に悲劇に見舞われます。そしてこの事件は義光が豊臣家を見限った契機にもなりました。次回、最終章「山形57万石」にご期待ください。