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出羽戸沢一族

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 秋田を代表する戦国大名といえば、檜山と湊の安東氏、横手盆地の小野寺氏、そして仙北角館の戸沢氏ですが、「前二者を書いて戸沢氏を紹介しないとは何事か!」と地元の方にお叱りを受けそうなので記事にしました(笑)。

 戸沢氏は平忠盛(清盛の父)の弟忠正の孫衡盛の子孫と称しますが、これには異論があり奥州藤原氏に仕えた開発領主が出自ではなかったかと言われます。というのも衡というのは奥州藤原氏の通字で、藤原氏から偏諱を受けたのではないかとされます。本貫の地は陸奥国磐手郡滴石庄(現在の岩手県雫石町)。滴石庄戸沢邑に居を構えたことから戸沢氏と称したそうです。

 では戸沢氏がいつ陸奥から出羽へ移ったかですが二つの説があります。一つは奥州合戦の論功行賞で磐手郡各地の地頭職を賜った関東御家人千葉氏、工藤氏、南部氏らに圧迫され本領を追われたという説。もう一つは勢力を拡大する南部氏との抗争に敗れ陸奥を叩きだされたという説(1206年)。

 どちらもありそうですが、奥州藤原氏の旧臣で一応所領は安堵されたとはいえ鎌倉幕府内で弱い立場だったことは容易に想像できます。前者の説では南部氏は鎌倉時代初頭から糠部郡の地頭に任命されていたことになりますが、安東氏のシリーズでも考察した通りこれはかなり怪しいので、後者の説を採りたいと思います。

 奥州で南北朝時代南朝方に付いたのは伊達氏や南部氏など新興の豪族たち。一方北朝側は大宝寺氏や相馬氏ら既得権益を持っている者たちでした。新興武士団は反体制側について既得権益をぶち壊し己の勢力を拡大しなければなりません。それに成功したのが奥州では伊達氏、南部氏。両者はある程度勢力を拡大したらすかさず体制側である室町幕府に帰順するという過程も似ています。戸沢氏はそのとばっちりを食ったと言えなくもありません。

 出羽に逃れた戸沢氏でしたが、結局この地にも南部氏は進出してきます。戸沢氏は南部氏に従属せざるをえませんでした。戸沢氏が平氏の子孫を称したのは甲斐源氏の末裔たる南部氏に対抗しての事でしょう。出羽に入った戸沢氏は仙北郡門屋地方に落ち着きます。

 南北朝時代、奥州の地には義良親王を奉じた陸奥北畠顕家が下向してきました。戸沢氏は南部氏と共にこれに属し北朝方と戦います。顕家が畿内で戦死し弟北畠顕信鎮守府将軍として赴任した時もこれを助けました。一説では本貫の地奥州滴石庄にも庶流の戸沢氏が残っていたようですが、宗主国の南部氏が北朝方に寝返ると戸沢氏もまた従います。この過程で滴石から完全に出羽に中心が移ったようで、以後は出羽国仙北郡を中心に勢力を張りました。

 戸沢氏がいつ角館城に本拠を移したかは諸説あり応永年間説(1394年~1428年)、天文年間説(1532年~1555年)が主なものです。他には文明十一年(1479年)とも言われます。とにかく角館移転が戸沢氏の戦国大名としてのスタートだったと言えるでしょう。

 応仁二年(1468年)南部氏が小野寺氏との抗争に負け仙北三郡から撤退すると、南部氏の軛から脱した戸沢氏も領土拡張競争に加わりました。最初は大曲地方進出をかけて安東氏と、その後仙北郡の支配権を巡って小野寺氏と抗争します。

 戸沢氏の最盛期は十八代盛安(1566年~1590年)の時代。その前の父道盛の時代が、横手城の小野寺氏に攻め込まれて滅亡の危機でした。「鬼九郎」の異名をとった盛安は家督を継ぐと反撃を開始します。小野寺氏を南に押し返し仙北郡をほぼ平定。雄物川沿いに侵攻してきた安東愛季(ちかすえ)の軍勢を撃退するなど素晴らしい働きをします。

 天正十四年(1586年)宿敵小野寺義道が雄勝郡に勢力を伸ばしてきた最上義光と有野峠で対峙すると、盛安はこの隙を突いて自ら三千騎を率いて出陣しました。この辺り最上義光と何らかの示し合わせがあったと思います。この合戦で盛安は小野寺勢を大いに破りますが、義道の援軍が駆け付けたために撤退。翌十五年に安東氏の内紛である湊合戦が起こると実季の従兄弟で主家に反乱を起こした湊安東道季を援助して安東軍と戦うなど出羽北部で確固たる地位を築きました。

 有能な武将というのはどんな田舎にあっても中央の情勢に気を配るものですが、盛安も例外ではなくいち早く小田原の陣の豊臣秀吉に拝謁し本領安堵を勝ち取ります。しかし盛安は不幸にして小田原の陣中で病没しました。享年25歳。後を継いだのは弟の光盛でした。ところが不幸は続き光盛もまた朝鮮出兵の出陣中姫路で病死するのです。盛安にも光盛にも嫡子がいなかったので戸沢家は存亡の危機に立たされました。

 そんな中、戸沢家臣団は一人の人物に思い当たります。盛安の忘れ形見でした。ある時盛安は鷹狩りの途中立ち寄った百姓家で娘を見染め一夜を過ごします。娘はまもなく男子を産みますが、盛安は実子と認めず娘は泣く泣く山伏に子供を連れたまま嫁ぎました。家臣たちはこの男子を探し出し、元服させ安盛と名乗らせます。ところが豊臣家は安盛の家督相続を認めず、困り果てた家臣たちは徳川家康に泣きつき、彼の取り成しでようやく家督相続を認められました。この時安盛わずか6歳。その後戸沢家は徳川家の庇護を受け、安盛は徳川家の重臣鳥居忠政の娘と結婚して名を政盛と改めます。

 しかし、人生何が功を奏するか分かりません。戸沢政盛(1585年~1668年)は、この一件で完全に徳川党になり最後には譜代大名同然になりました。関ヶ原合戦の後常陸手綱四万石に移されますが、元和八年(1622年)には最上家改易を受けて出羽国最上郡新庄で六万石を与えられました。以後新庄藩戸沢家は六万八千石に加増され幕末まで続きます。

 隣国小野寺氏は関ヶ原の処理を誤って滅亡します。それに比べると戸沢氏は幸運な一族でした。同年生まれ(1566年)の戸沢盛安、小野寺義道の人生を比べると余計にそう感じます。