
1587年、英雄である父安東愛季(ちかすえ)が死去し、嫡子実季(さねすえ)が跡を継いだのは角館戸沢氏との戦の最中でした。
愛季の死を隠し撤退する安東勢でしたが、このような情報が漏れないはずもありません。戸沢盛安ばかりか横手城の小野寺義道までが参陣して安東勢と対峙しました。わずか13歳の少年当主、実季絶体絶命の危機です。
しかしこのとき中央では豊臣秀吉が天下人になっていました。1587年秀吉は関東奥羽総無事令を発し大名間の私戦を禁じます。翌1588年3月秀吉の使者を受けた最上義光は出羽での発言権拡大をもくろみ小野寺義道に戦を停止するよう使者を派遣しました。
この一連の動きでひとまずの危機を脱した実季でしたが、今後はお膝元から騒動が起こりました。父愛季が檜山と湊の両安東家を強引に統一した事は前章で書きました。統一された側の湊家にしこりが残ったということも。
湊家の当主が愛季の弟茂季であったときにはそれも表面化しませんでした。しかし茂季の跡を継いだ通季(みちすえ)はこれに不満を持ち虎視眈々と謀反の時を待っていたのです。
通季は宿敵戸沢盛安と通じ湊城で蜂起します。従兄弟の反乱でした。もともと湊城周辺は湊安東家の領地でしたのでこれに呼応する旧臣も多く実季は本拠檜山城に押し込められる形となります。
敵は通季勢、戸沢勢だけではありませんでした。累代の宿敵南部信直までがこれに加わってきたのです。まさに絶体絶命でした。
もしかしたら愛季時代に謙信と誼を通じていた事が功を奏したのかもしれません。
豊臣政権の重鎮上杉景勝が安東氏側に付いたらしいという噂は出羽の諸将の動揺を誘いました。諸将は兵を引き上げ残されたのは通季の手勢のみになりました。半年間の籠城を耐え抜いた実季は、檜山城の包囲を解き撤退する通季勢を追撃、敗北した通季は南部氏を頼って亡命しました。
湊合戦の発端が安東家の家督争いということで最初秀吉は安東氏から領国を召し上げるつもりでした。これを知って驚愕した実季は家臣を大坂城に派遣して弁明を尽くします。上杉景勝、石田三成の力添えもあったのでしょう。
1590年、実季は秀吉から本領安堵の朱印状を勝ち取ります。これでようやく安堵した実季でしたが、愛季が拡大した所領は召し上げられ五万二千石が実季の所領として認められました。旧安東氏領のうち二万六千石が太閤蔵入地に編入され実季はその代官とされます。
しかし本領だけで実高十五万石以上あったとされるので実季としてはまずまずの成功でした。
また大浦為信もいち早く秀吉に拝謁したことから津軽の本領安堵を勝ち取り名を津軽為信と改めました。安東氏と南部氏がお互いに大きな犠牲を払ってまで領有を争った津軽は結局梟雄為信に奪われたのですから皮肉です。
安東氏としても恩のある上杉氏と戦いたくなかったというのは本音でしょう。が、領土深く攻めこまれ一時は滅亡まで覚悟していた最上義光にそんな事は関係ありません。
義光と実季は江戸で対決します。しかし実季謀反の証拠を示せなかった義光が敗訴、八方弁明を尽くした実季は事なきを得ます。ところが、上杉景勝、石田三成と親しかった実季は結局徳川幕府から白眼視されていたのです。
肉親の愛情に飢えていた家光にとって、外様とはいえ俊季は好ましい存在だったのでしょう。格別の愛情を注ぎます。「崇源院殿御由緒」として譜代大名格としたのです。俊季自身、律義な性格であった事もよかったのでしょう。感激した俊季は積極的に幕府の公役を務めます。
ですが、いくら譜代大名格になったとはいえ公役は藩の持ち出しです。若年から世間の厳しさを嫌というほど味わってきていた実季は、単純な息子の行動を苦々しく見守ります。俊季にも言い分があったでしょう。徳川幕藩体制の中で生きて行くにはこれしか仕方なかったというに違いありません。
父子は次第に仲違していきました。1628年二人の対立は決定的になります。俊季は一方的に父実季を藩政から締め出します。時に実季53歳、俊季31歳。以後父子が仲直りする事はありませんでした。
1630年幕府から実季は伊勢朝熊(あさま)に蟄居を命じられます。1631年江戸に呼び出された実季は宍戸五万石を召し上げられ改めて嫡子俊季に与えられました。1645年俊季は陸奥三春藩五万五千石に転封され以後幕末までつづきます。
安東氏は、この頃には秋田城介にちなむ秋田氏に改称していたようです。
実季は蟄居先の伊勢朝熊永松寺で長い晩年を生きます。およそ三十年、不遇の晩年を偉大なる先祖の記録「秋田系図」作成のために捧げました。その完成を待つように1660年死去、享年84歳。
大和朝廷に果敢に抵抗した安日彦の姿に、亡き父愛季を重ねていたのかもしれません。彼にとって生涯最良の日々は父愛季と共に過ごした幼少期だったでしょうから…。
(終)