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大宝寺義氏の由利郡侵攻と由利十二頭Ⅳ  由利合戦と出羽のその後

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 由利十二頭が十五家もあるのになぜ十二か?ということでどうも仏教の十二神将に関係があるらしいと書きましたが出典みつかりました。天徳三年(1331年)出羽国由利郡津雲出郷の源正光、滋野行家が天下泰平を祈願して鳥海山十二神将像を奉納したことからこの地方で十二という数字が神聖視されたそうです(姉崎岩倉著の「由利郡中世史考」の孫引き、【とある社会人と毛利元就ブログ 由利十二頭記事】参照)。

 大宝寺義氏は、十二頭のうち自領庄内地方に近い仁賀保氏を核として由利郡侵攻を進めました。仙北横手城主小野寺義道(1566年~1646年)は十二頭の矢島氏を通じて由利郡にも支配を浸透させていましたが天正九年(1581年)配下の鮭延秀綱が離反、隣国角館城主の戸沢盛安や村山地方最上義光の侵略を受け由利郡どころではなくなります。最上義光もこの頃置賜郡伊達輝宗との抗争を本格化させており北に延びる状況ではありませんでした。唯一気になるのは秋田郡安東愛季(ちかすえ)だけでしたが、これも宿敵南部氏との火種を抱えておりおいそれと南下できないだろうという読みから、天正十年(1582年)三月の大宝寺義氏由利郡侵攻となったのだと思います。

 由利十二頭に対外勢力の後押しがない状況では、大宝寺軍は有利でした。さらには安東氏は湊騒動という内紛を抱えており重臣豊島玄蕃(旧湊安東家臣)が愛季の湊安東家乗っ取りに反発して蜂起していたのです。豊島玄蕃は仁賀保氏と姻戚関係を結んでおり、大宝寺仁賀保=豊島という関係を軸に大宝寺義氏は由利郡の大半を制圧します。義氏は安東氏の背後に位置する大浦(津軽)為信と同盟し安東愛季を牽制することも忘れませんでした。

 得意の絶頂にあった義氏ですが、運命は急展開を見せます。大宝寺軍は最後まで抵抗した安東方小介川氏の新沢城を囲みました。安東愛季は大浦軍と対峙していましたが、急報をうけ手勢を率いて南下します。落城寸前だった新沢城は安東軍の援軍で息を吹き返し戦いは痛み分けに終わりました。大宝寺義氏は由利郡侵攻と同時に最上領の村山郡にも手を出していました。大宝寺氏の国力を考えると二正面作戦は理解に苦しむのですが、案の定清水城の戦いでも清水氏・鮭延氏・最上氏の連合軍に敗北、退却を余儀なくされます。

 総動員体制だった大宝寺氏はたび重なる外征の失敗で急速に国内の支持を失いました。もともと無理に無理を重ねての対外進出だったので領民は重税にあえぎ、義氏のことを「悪屋形」と陰では罵っていました。家臣の忠誠心も揺らいでいた中、天正十年(1582年)六月には後ろ盾と頼んでいた織田信長が本能寺で横死するという事件が起こります。

 信長の勢力を背景にした義氏の屋形号の権威は失墜し、悪いことに大宝寺義氏という共通の敵を持つ安東愛季最上義光が同盟を結ぶ事態にまで発展しました。大宝寺庶流の砂越氏や配下の来次氏は義氏を見限り次々と離反します。そして止めは側近の前森蔵人でした。前森は酒田代官を務めるほど信頼されていましたが、最上義光と通謀し蜂起したのです。この反乱には大宝寺一族、家臣、多くの国人が参集し義氏は孤立します。それだけ嫌われていたのでしょう。大軍に膨れ上がった反乱軍は義氏の居城尾浦城を囲みました。もはやこれまでと覚悟した義氏は自害、大宝寺家督は義氏の弟で藤島城主の義興が継ぎます。大宝寺義氏享年33歳。
 
 前森蔵人は東禅寺城に入り東禅寺義長と改名、庄内地方は最上方の東禅寺氏、来次氏、砂越氏と勢力を大きく後退させた大宝寺氏とに分割されました。一方、由利郡は大宝寺義氏の自滅によって安東愛季が制圧します。おそらく由利郡を安東氏が庄内地方を最上氏が取るという密約が出来上がっていたのだと思います。

 その後大宝寺氏は天正十五年(1587年)最後の当主義興が最上義光に討たれました。本庄繁長の子で義興の養子に入っていた義勝が大宝寺氏を継承、上杉景勝傘下の大名として生き残ります。しかし天正十九年(1591年)豊臣秀吉奥州仕置の際庄内一揆を扇動した罪で改易、義勝は上杉氏の家臣として命脈を保ちます。その後父本庄繁長の死を受けて本庄氏の家督を継いだため大宝寺氏の家名は断絶しました。

 由利十二頭はどうなったでしょうか?一時安東愛季の配下になったものの秀吉の奥州仕置き後は最上義光に属し関ヶ原の合戦では西軍の上杉軍と対峙します。ところが直江兼続率いる上杉軍が最上領に侵攻すると最上軍が敗北するのを見て次々と逃亡。結局最上方に残ったのは仁賀保、赤尾津、岩谷、滝沢の四家のみでした。戦後、東軍が勝利すると家康は逃亡した由利衆を武士にあるまじき行為として許さず改易します。生き残ったのは幕臣となった仁賀保氏、打越氏、最上家臣となった赤尾津氏、滝沢氏などごく少数でした。その中で仁賀保氏は一時的にせよ故郷の由利郡仁賀保に返り咲き一万石の大名になったので幸運な部類でした。それでも最後は嫡流が絶え兄弟で分割相続され旗本に戻ります。

 戦国大名が近世大名として生き残り明治維新を迎えるのは本当に難しいことだと改めて考えさせられますね。