
学校で日本史を学んだ大半の人は覚えておられると思いますが、日本の律令体制では四等官という仕組みがありました。かみ(長官)すけ(次官)じょう(判官)さかん(主典)というやつです。これは唐の律令制を参考にしたもので当てられる漢字は違えどもほとんどの役所でそう呼ばれました。
ただし例外も当然あり、中央官庁の太政官ではかみ(長官)に当たるのが太政大臣・左大臣・右大臣、すけ(次官)が大納言・中納言・参議です。地方では守(かみ)介(すけ)掾(じょう)目(さかん)の字があてられました。越前守とか上総介という呼び方は皆さんご存知ですよね。
ところで出羽では通常の介のほかに、令外官(律令の規定にない新設の官職)として秋田城介という官職が設けられました。これは朝廷の最前線基地となる秋田城の守備を担当する役職です。通常出羽介が兼任しましたから出羽では秋田城介がすけ(次官)と考えてもらって良いでしょう。おそらくこれは出羽が通常の国ではなく蝦夷という異民族支配を想定した軍管区司令官として国司を位置付けていたからだと思われます。それならば事情が同じはずの陸奥にも軍事的な官職が設けられるはずですよね。これが(専門家には異論があるでしょうが…)鎮守府将軍でした。極論すれば秋田城介と鎮守府将軍は軍事・軍政を担当した類似した職責だったのではないかと考えます。どちらも従五位相当の官位という事も似ています。
おそらく武士の間では秋田城介というのは鎮守府将軍と似たようなステータスがあったらしく、鎌倉期律令体制が形骸化してくると鎌倉幕府の有力御家人安達氏が世襲する官職になりました。戦国期には織田信長の嫡男信忠も任官しています。出羽北部の檜山郡・秋田郡・河辺郡を統一した安東氏は実季の時秋田城介にちなんだ秋田氏に改名しました。
一方、奥州留守職というのは多賀城(陸奥国府があった)の統治をつかさどる官職ですから朝廷の令外官かと思いきや、調べてみると鎌倉幕府の陸奥支配の役職でした。鎌倉幕府の陸奥支配の役職というと葛西清重が就任した奥州総奉行が思い出されますが、奥州総奉行は奥州の軍事・警察権を司る守護の拡大版のような役割だったのに対し奥州留守職は奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦後の戦後処理、主に民事訴訟・行政を担当した役職だったようです。ですから御家人たちが奥州各地の地頭に任命され鎌倉幕府の支配権が強固になってくると次第に形骸化していきます。