鳳山雑記帳はてなブログ

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豊臣三中老のその後

 本日の話題は非常にマニアックですのでスルーお願いします。

 

 三中老というのは豊臣政権で五大老五奉行の意見が合わないときに仲裁役として設けられたもので、生駒親正堀尾吉晴中村一氏が任ぜられました。ちょうど戦国時代をテーマにしたシミュレーションゲームを遊んでいてこの三人が出てきたものですから、彼らの子孫がどうなったのか気になりました。

 生駒親正は讃岐丸亀十七万石、中村一氏伯耆国十七万五千石、堀尾吉晴は出雲二十三万五千石を関ケ原後領したはず。ただ江戸期を通じて彼ら以外の大名がこの地を領しています。讃岐丸亀は生駒氏の後山崎氏が入り最後は京極氏が六万石→五万一千石で幕末を迎えています。出雲は堀尾氏から京極氏に代わり最後は親藩松平氏で幕末に至りました。伯耆は中村氏の後因幡と共に池田氏が三十二万石で入り伯耆国米子城には家老の荒尾氏が入ります。

 調べてみると、三氏ともお家騒動とか無嗣断絶で終わっていますね。生駒氏は1640年親正の曾孫高俊の代に生駒騒動を起こして断絶、嫡男高清が八千石の旗本になり幕末まで続きました。

 中村氏は一氏が1600年8月に死去、1609年には嫡男一忠が急死し後継ぎがいなかったためあっさり断絶しています。運がない一族でしたね。

 堀尾氏も嫡男忠氏が早死にし、吉晴本人も1611年69歳で亡くなっています。孫の忠晴が跡を継ぎますが1633年35歳の若さで急死しこれも後継ぎがいなかったために断絶しました。徳川家に近い大名なら一族の誰かを旗本に取り立て家名だけは残すのでしょうが、豊臣恩顧の大名には冷たかったんでしょうね。福島正則とか加藤清正も同じ扱いですから。正則の子孫は二千石の旗本になったようですが…。

 こうしてみると織豊期に勃興した家で江戸時代を生き抜くことは難しかったんでしょうね。それを考えると平安時代から幕末まで続いた佐竹氏、鎌倉時代以来の島津氏、南北朝以来の伊達氏は凄いと言わざるを得ません。これら三家は勢力の増減はあってもずっと大名ですから。