私が外伝を書くのはそれだけ思い入れが深いシリーズだとお思いください(笑)。上の表は関ヶ原で米沢30万石に減封後の米沢藩家臣団の席次です。会津120万石から米沢30万石に大幅に減らされた上杉家の家臣団がどうなったか気になったので調べてみました。
上杉家は、減封されたものの家臣団をできるだけ解雇しない方針だったので家老格でも石高は少ないです。心情的に切れなかったのでしょう。これは毛利氏も同様でした。上杉家臣団と言えば筆頭家老の直江兼続の子孫が居ない事に気づかれるでしょう。実は兼続には実子が無く断絶しています。その代わりに弟大国実頼の家系が引き上がられたのだと思います。
しかも、上杉一門で高家の能登畠山氏が兼続を嫌っており直江氏一族は冷遇されました。どうも関ヶ原で兼続が豊臣方に付いたから負けて大減封されたと恨んでいたようです。まあ清和源氏の名門能登守護畠山家の家格(世が世なら国持ち大名)がたったの250石にされたら、そりゃ恨みますわな(苦笑)。
上杉家の方針として、外様の揚北衆や信濃衆を優遇して上杉一門、長尾一門など親戚は家格が高い分石高は低く抑えたようです。身分で平侍とありますが、これは他家では上士クラスで一代家老か執政にはなれる家柄でした。
信濃衆というのは、信濃北部で上杉・長尾氏に仕えた豪族。高梨氏などが有名です。本来信濃の武士は守護小笠原家に従わないといけないんですが、守護家に逆らって関東管領に直接仕えられたら小笠原氏も面白くないでしょうな。武田信玄が北上すると彼らは謙信に泣きつきますが、今までの行状の罰が当たったのか全員信玄によって信濃から叩き出されました(苦笑)。
意外だったのは、謙信に内通の疑いで粛清された柿崎景家の子孫がちゃんと残っていた事。やはり外様の有力国衆だった柿崎氏を粗略にはできなかったようです。その分石高が低いのはペナルティなのかもしれませんね。
上表にない上杉家臣は、御館の乱で景虎方について滅ぼされたか、お家を残されたケースでも低い席次に置かれました。有名どころだと甘粕近江守景持の甘粕氏は会津時代には6000石を貰っていたのに米沢時代はなぜか席次41位で200石です。甘粕氏がなぜこうなったのか不明です。もしかしたら子孫がへまをしたのかも?こういうと子孫の方に怒られそうですが…。間違ってたらごめんなさいね。もし詳しい情報をお持ちの方はお知らせください(笑)。千坂民部の子孫が席次8位なのと比べると、この差は何なんでしょうかね?イメージ的には千坂氏と甘粕氏ってあまり変わらないような気がするんですよ。