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越後長尾氏の興亡Ⅴ   為景の章(前編)

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 室町時代守護大名が下克上されずに戦国大名に成長するには一つの条件があると私は考えます。それは自らが軍を率いて戦えるかどうか?日本史に詳しい方は、畿内において細川氏は自ら軍を率いながら家宰の三好長慶に取って代わられたではないか!その長慶でさえ自ら戦に出陣しながら彼の死後三好家は家老の松永久秀に乗っ取られたではないか!と反論されるでしょう。

 確かに中央では例外があると思いますが、地方に限定すると守護大名から戦国大名に成長した家は、豊後の大友氏にしても薩摩の島津氏にしても駿河の今川氏や甲斐の武田氏あるいは奥州の伊達氏、出羽の最上氏にしても上の法則があてはまるような気がします。大友宗麟は自ら兵を率いて遠征した印象があまりありませんが、要所要所では家臣任せにせず出陣しています。その前の大友家当主も出陣を躊躇しませんでした。

 これは軍を率いる事で(軍役を務めた)国人たちを掌握家臣団化し統制できるからです。ですから戦を重臣任せにすることは大変危険で、大内義隆も晩年出陣を嫌って周防守護代陶晴賢に下克上され殺されていますし、斯波義孝は越前守護代朝倉氏景に京極政経は出雲守護代尼子経久土岐頼芸斎藤道三にそれぞれ国の実権を奪われています。

 越後でも例外ではありませんでした。越後守護上杉房能は数々の戦を守護代長尾氏に任せ過ぎたために越後の国人は上杉氏ではなく守護代長尾氏を主と仰ぐようになります。戦死した父能景に代わり越後守護代に就任した長尾為景(1489年~1543年)は、このような越後国内の空気を受け邪魔になった守護房能を除く機会を虎視眈々と窺っていました。

 ここで一人の人物が登場します。上野国の豪族白井長尾家の景春です。長尾景春が主君関東管領山内上杉顕定に対し反乱を起こし扇谷上杉家の家宰太田道灌の力を借りて鎮圧された事は前に書きました。反乱は文明十二年(1480年)に集結しているのですが、反乱の首謀者景春が殺されたわけではなく単に本拠白井城群馬県渋川市)から叩き出されただけでした。

 その後景春は、嫡子景英と共に顕定と敵対していた古河公方成氏の下に逃げ込み再起の機会を待っていました。ところが明応三年(1494年)肝心の成氏が顕定と和睦してしまいます。進退極まった景春父子ですが、あくまで山内上杉勢力と敵対し続けようとする景春に対し息子景英は降伏の道を選びました。景英は帰参を許され白井城も返還されます。一方、景春は扇谷上杉領の相模に野心を見せ始めた伊豆の伊勢宗瑞(後の北条早雲)と結びました。

 この一連の流れで、景春から越後の為景に働き掛けがあったのは確実だと思います。景春にとっては山内上杉家と一体化している越後上杉家を倒すことは顕定の力を弱めるために必要ですし、越後の実権を完全に握りたい為景にとっても渡りに船だったでしょう。

 永正四年(1507年)長尾為景は越後守護房能の養子定実(さだざね)を擁してクーデターを敢行します。定実は上条上杉房実の子でした。祖父清方が関東管領を務めたほどの家柄で越後上杉氏の有力庶家でもあったので家格的には越後守護になっても不思議ではなかったのですが、房能にとっては寝耳に水の出来事です。

 防戦の覚悟をする房能でしたが、駆けつける国人はほとんどおらず府中での防戦を諦めます。房能は兄で関東管領上杉顕定のいる上野国に逃れて態勢を整え反撃しようと考えました。一行は関東への近道である安塚街道をひた走りますが松之山温泉を過ぎ天水越えにさしかかったところで為景の送った追手に追いつかれてしまいます。為景方の高梨、上野らの軍勢に囲まれ進退きわまった房能は近臣と共に自害して果てました。

 主君房能を討って越後国主(守護の定実は傀儡)になった為景は、奥州の伊達、蘆名ら有力豪族の支持も取り付け着々と支配を固めます。実の弟を殺された関東管領上杉顕定の怒りはすさまじいものでした。すぐにでも討伐の遠征軍を送りたかったのですがこの頃長尾景春が関東で蠢動しており身動きとれませんでした。これを見ても今回のクーデター劇が為景と景春の示し合わせだと分かります。

 永正六年(1509年)ようやく越後に通じる沼田城白井城を景春方から奪回した顕定は関東の大軍を率いて越後国境を越えました。長尾景春は、最終的に顕定に敗北し駿河今川氏のもとへ亡命します。そして駿河の地で没したと伝えられます。

 越後に進入した上杉勢は、府中長尾氏の有力庶家上田長尾房長を味方につけます。上田長尾氏は気位が高く府中長尾家に対抗心を持っていたため簡単に上杉方の調略に乗りました。おそらくこの時上杉勢は二万は下らなかったと思います。一方為景は八千の兵を集めるのが精一杯でした。この形勢を見てもう一つの有力庶家栖吉長尾房景も顕定に降ります。為景方には揚北衆が味方につきますが、彼らが味方に付いたという事は裏を返せば為景の方が反主流派という事になります。

 結局上杉の大軍の前には成すすべもなく為景は府中を叩き出されました。越中に逃亡した為景はそこで越中の国人たちを味方につけます。上杉勢は、中郡の攻略を優先し為景方の三条島城の山吉能盛、黒滝城黒田秀忠・志駄義春らを攻めました。ところが山吉らは頑強に抵抗し上杉方は攻めあぐねます。

 顕定は、為景に味方した国人たちに厳しく当たりました。領地没収は当然、妻子もふくめて斬罪、それだけ弟を殺された恨みが深かったのでしょうが生き残った為景方の国人たちは山野に隠れたり隣国に亡命したりしました。占領軍に対し越後の人心は離れます。

 永正七年(1510年)六月六日、栖吉長尾房景の軍勢によって為景方の蔵王堂城、黒滝城が攻略されます。このころが上杉勢の最盛期でした。為景はじっと反撃の機会を狙います。まず、顕定が弟房能殺しの下手人としてその首に賞金を掛けていた北信濃の豪族高梨政頼が白鳥口から越後に進入しました。為景方の上条上杉定憲は本拠上条城で挙兵します。同じく信濃の豪族村上直義も糸魚川から府中を窺いました。

 後は総大将為景の越後入りを待つだけです。為景はどのようにして巨大な上杉勢を倒したのでしょうか?後編では為景の戦いとその後の越後情勢を見ていく事としましょう。